【ボレロ】 38-3 -ハーモニー
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会社から走り出して間もなく、車は渋滞の列に巻き込まれた。
自然渋滞とは思えない、新年度早々道路工事でしょうかと運転席から声がして、ルームミラー越しに運転手の佐倉は眉をよせた。
間に合うだろうか……
そう思う一方で、出産には時間がかかる、まだまだ大丈夫と自分に言い聞かせる。
昼時のオフィス街は、食事へ向かう人々であふれていた。
「病院についたら、君たちは先に食事をすませてくれ。
懇親会までに会社に戻るようにと社長に言われている。 ゆっくりしてくるといい」
「ありがとうございます。副社長は、食事はいかがなさいますか」
「俺か? そうだな、生まれたら食事どころではないが……」
返事に迷っていると、後部座席に並んで座る堂本が、なにか用意しましょうかと秘書らしい気遣いを口にした。
その顔へ、
「いや、いい。三食抜いても倒れない自信はあるぞ」
と妙な自慢をしていると、渋滞情報を確認していた佐倉から、この先で事故があったようですと報告があった。
「事故の直後ですから、しばらく渋滞するでしょう。次の交差点で横道に入ります。
少し遠回りですが、こちらの方が早く着くはずです」
「わかった、任せる。だが、あわてる必要はない。そう簡単には生まれないだろうからね。
結姫のときも、病院に着いてから相当待たされたよ。朝入院して、生まれたのは夜だった」
陣痛から出産まで初産で十数時間、出産経験者でも数時間はかかるのだとの、聞きかじりの妊婦の知識を独身のふたりに披露する。
もうすぐ生まれそうだとお袋は言っていたが、いまだ生まれたと連絡がないのだから思いのほか時間がかかっているのだろう。
結姫が生まれるときと同じく病院に待機している沙妃ちゃんから、出産間近になったら知らせが入ることになっていた。
交差点を曲がった車は、それまでの遅延を取り戻すように軽快に走り病院へたどり着いた。
玄関に駆け込み、エレベーターを待つのももどかしく階段を駆け上がり病室へ向かう。
部屋の前には両家の母親と結姫がいた。
私の姿を認めた母親たちの表情から察するに、まだ生まれていないらしい。
「とうさま」 と嬉しそうに駆け寄る娘を抱き上げ、額に滲んだ汗をぬぐいながら弾んだ息を整えた。
「出産までもう少しかかりそうですね」
ちょうど珠貴の部屋から出てきた助産師から説明があった。
助産師の言葉を聞いたお袋は、気まずそうに私へ小さく頭を下げた。
「急がせてしまったわね。さきほどは、もうすぐかしらと思ったのよ」
「結姫のときも時間がかかったからね」
「そうですけれど、お産はそのときどきで違うんですよ。宗さん、これからまた会社へ?」
「新入社員の懇親会がある。夕方には終わる予定だから」
お袋は会社へ戻るのかと非難めいた顔だったが、須藤の義母は仕事を優先してくださいねと私を気遣った。
『SUDO』 も今日が入社式で、社長である義父は席を外せない。
それは近衛のトップである私の父も同じである。
「珠貴ちゃんの様子は、私がお義兄さまにお知らせします」
「うん、沙妃ちゃんが頼りだからね」
「まかせてください」
大きくうなずきスマートフォンを握りしめる沙妃ちゃんは、半月後にアメリカへ旅立つ予定になっている。
義妹に情報伝達をあらためて頼み、結姫を連れて病室に入った。
珠貴は眠そうな顔で横になっていた。
ベッド近くに並ぶ医療機器の物々しさに不安を感じたのか、結姫はしきりに 「だいじょうぶ?」 と珠貴に語り掛ける。
娘の手を握りながら珠貴は 「大丈夫よ」 と繰り返した。
「少し眠ったの」
「痛みは?」
「なかなか強い痛みが……」
そう言いながら、珠貴は顔をゆがませた。
私の手を強く握り息を整えるが、かなり辛そうである。
いよいよその時が来たかと緊張したが、珠貴は苦しそうな顔に笑みを浮かべて 「まだよ」 と落ち着いている。
痛みが遠のくと、なんでもなかったような顔になり、会話もいつもと変わりない。
男には耐えられない痛みを出産で経験するらしいと、頭ではわかっているが、痛みの想像は難しい。
出産間近の珠貴の姿に女性の強さを見た。
「入社式、いかがでした?」
「今年も優秀な人材がそろっているよ。これから懇親会だ、終わったらすぐここに戻ってくる」
「待ってるわ。この子たちと一緒に」
「知らせを待ってるよ」
大きくせり出した妻の腹に手を置き、それから体を静かに抱いた。
結姫も私を見習って、珠貴にそっと触れる。
「ゆうき、赤ちゃんもがんばってるの。お名前を呼んではげまして」
「うん。せいくーん、きょうくーん、がんばれー……きこえたかな?」
「ちゃんと聞こえてるよ。結姫、もうすぐ会えるね」
小さな唇をキュッと結んでうなずく結姫に、幼いながらも姉の自覚が感じられた。
珠貴のそばでしばらくすごしたのち、私は病院をあとにした。
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