【花香る下で】 54 -花の香り- 後編 最終回
- CATEGORY: 花香る下で
9月に入り新生活に入ったのち、里桜が来年2月末に出産予定であること、つわりの症状があらわれているが心配ないことなど、身近な人へ伝えた。
陽菜子や祐斗の両親の喜びは予想していたが、意外だったのは紀明の反応だった。
里桜に子どもが授かったことを喜びながら、しきりに心配を口にして、すぐにでも帰国した方がよいのではないかと言い出して里桜を困らせた。
また、祐斗の父からも同様の心配が伝えられ、祐斗は苦笑いで聞いていた。
日本を発つ前に里桜から妊娠を知らされていたら、自分も同じように言っただろうと思ったからである。
ベルギーの不安定な気候は妊婦には負担が大きいだろうというのが、父たちが里桜へ帰国を促す理由のひとつだった。
日本の9月は残暑がありながら少しずつ秋へと季節が移っていくが、こちらは気温差が大きく、最高気温が30度の次の日が20度以下になったりと安定しない。
気温の変化に体がついていかず体調を崩しやすいことをあげながら、近頃のヨーロッパ各地で頻繁に起こるテロを心配している様子でもある。
そして、里桜は思いのほか元気にすごしている。
ただ、匂いには敏感で食べられるものが限られており、和食中心の食事と果物になっていた。
「おはよう。今朝の気分は? 食べられそう?」
「この香りだけで満足、あぁ……いい香り……」
妊娠してから柑橘系の香りを好むようになった里桜は、中でもブラッドオレンジがお気に入りで、今も祐斗が差し出した一個を両手で包んで鼻によせ香りに浸っている。
「匂いでお腹はいっぱいにならないよ。そのオレンジだけでも食べて」
「うん……あとでね。まだ眠くて」
朝が早い寺での暮らしで早起きは得意だった里桜が、このところ朝起きられなくなっていた。
目が覚めても起き上がれず、うとうとするうちにまた眠りに引き込まれ、まどろみながら祐斗を見送る日もあった。
ところが昼を過ぎると元気になり、一変して活動的になる。
動き過ぎではないかとの祐斗の心配をよそに、日本から届いた荷物の片付けをしながら、家の中を整える作業に熱中した。
朝が苦手になった里桜に代わり、朝食の準備は祐斗が担い、そのほかの家事は里桜が務めるが、決して無理はさせない。
帰宅が早いため、里桜と過ごす時間はたっぷりあった。
キッチンに並んで立つことも多く、手を動かしながら一日の出来事を語り合う。
遠く日本を離れたベルギーで、ふたりの新婚生活は充実していた。
最初に新婚家庭を訪れたのは、結婚式を挙げたばかりの 『煎茶道 白羽流』 若宗匠の赤羽裕伸だった。
白羽流派は、来年この地で茶会が決まっている。
新婚旅行を兼ねた出張だよというとおり、ブリュッセルで現地の担当者と打ち合わせが入っているそうで、その合間に訪ねてきたのだった。
「里桜ちゃんのこと、みんな喜んでるよ。高辻のおじさんは心配そうだったけどね」
「日本に帰ってこいっていうんですよ。出産までいるようにって」
「それだけ里桜ちゃんが心配なんだよ。これ、おじさんからの預かりもの」
赤羽が妻と一緒にとり出したのは、里桜が好む食材ばかりだった。
いまは世界中どこでも日本食の材料は手に入るが、品質にばらつきある。
赤羽夫妻が持参したのは、上質のものばかりだった。
「わぁ、こんなにたくさん、ありがとうございます」
ありがとうございました、と律儀に頭を下げた祐斗へ、赤羽は大きく手を振った。
「来年のうちの海外茶会の手伝いを頼みたいので点数稼ぎですよ。
祐斗さんと、できたら里桜ちゃんも一緒に、お願いします。
ふたりが手伝ってくれたら、どんなに助かるか。期待してます」
早くも来年の茶会の手伝いを要請して、赤羽夫妻は帰っていった。
翌々週には、やはり新婚旅行でやってきた本田真太郎と真夜が新居に立ち寄った。
こちらも、紀明から託された食材のほかに、真太郎が焼いた皿とカップを持参していた。
「陽菜子おばさま、おふたりの結婚の内祝いのお品にしたいとおっしゃって、真太郎の作品を注文してくださったの」
「順次届けているところだよ。これはふたりへ。一応、一点ものだから」
優しい手触りのカップは、皿と同じ模様が刻まれている。
真太郎と真夜の滞在は半日だけで、話し足りない思いと楽しかった時間のあとの寂しさを感じていた翌日、急な来客があった。
一人旅が趣味の祐斗の元同僚の鈴置が、バッグ一杯の土産とともにやってきた。
一晩だけでいいからと遠慮がちな鈴置を、祐斗と里桜は二泊三日世話をした。
友人たちが届けてくれた食材と、陽菜子から定期的に届く食品のおかげで、外国にいて三食とも和食の食事がとれた里桜の体調は順調だった。
陽菜子と小枝子がブリュッセルにやってきたのは、クリスマスシーズンで街が賑わう12月半ばだった。
本物のもみの木のツリーに感動の声を上げ、飾りの色に落ち着きがあるわ、やっぱりヨーロッパのクリスマスはいいわねと興奮気味の小枝子の相手は祐斗が務め、里桜は母とのおしゃべりに夢中だった。
里桜が日本を離れて三ヵ月半が過ぎていた。
里桜の様子が気になりながら陽菜子が渡欧できなかったのは、多忙であったことと、秋に法事があったためである。
荒木家の一人娘の結婚に、たくさんの祝いが寄せられた。
それらの内祝いをととのえるだけでも大変だったが、陽菜子は娘のためにそれらをすべて一人でやりきった。
秋の由希也の命日には高辻家へ赴き、由希也がなくなって以来初めて法事に同席した。
これまで遠くから手を合わせてきた陽菜子だったが、今年は紀明から強く勧められたこともあり高辻家の親戚が集まる法事へ出かけたのだった。
久しぶりに対面した由希也の遺影に、陽菜子は里桜の懐妊を伝えた。
ふっくらと丸みを帯びた娘の体に手を置くと、手のひらから幸せが伝わってくる思いがする。
そして、里桜を身ごもっていたときの感覚がよみがえってきた。
祐斗が腕をふるった料理が並ぶテーブルを囲みながら、陽菜子は昔の自分に向き合っていた。
婚約者を失ったあと、彼の子どもを宿していた陽菜子に手を差し伸べたのは、ずっと陽菜子に思いを寄せていた荒木春人だった。
春人の手にすがるように結婚した半年後、夫と両親を事故で失う不幸に見舞われた。
重なる不幸に打ちひしがれ、不幸を嘆く日々だったが、生きるしかないと悟ったとき、生まれ来る命に希望を託した。
お腹の子によって自分は生かされているのだと思った。
手のひらに伝わる胎動は力強く、生きる望みになった。
自分に望みを与えてくれた娘が、いままた新しい命を宿している。
陽菜子は言葉にできない感動に包まれていた。
お母さん、おかあさん……
里桜に二度呼ばれて、ふと我に返った。
「お父さん、元気?」
「元気よ。あなたに、日本に帰ってきてほしいそうよ。やっぱり心配だって」
「私たち、紀明さんに言われてきたの。里桜を連れて帰るようにってね」
小枝子が親子の会話に入ってきた。
「帰りませんって言ったのに」
「本当にこっちで産むつもり?」
「そうよ。病院も決まってるの、祐斗さんも賛成してるから」
「うん……でも、もう一度考え直した方がよくないか」
ここにきて考え直すように言い始めた祐斗に、里桜は猛反発した。
「えっ、いまさら、どうして? いや、絶対にいや。帰らない」
意地をはって、もしも何かあったらどうするの、と小枝子は里桜を諭したが、首を横に向け口をギュッと結んで黙ってしまった。
小枝子があれこれと言葉を尽くしても、脅すように言っても、里桜から言葉は返ってこない。
見かねた祐斗が、とうとう里桜の説得をはじめた。
「俺の心配はいらないよ。なんでもできるから、ひとりでも困らない。里桜のほうが心配だし、俺もその方が……」
「私が祐斗さんと離れたくないの。だって、もしも離れてそのまま会えなくなったら……そんなの絶対にいや」
「会えなくなるわけ、ないだろう」
「だって、お母さんとお父さんは会えなくなったのよ。私は絶対に離れない、祐斗さんのそばにいたいの」
叫ぶようにそういうと、里桜は奥の部屋へ入ってしまった。
祐斗も陽菜子も、里桜の本心を初めて聞かされ衝撃を受けた。
小枝子は呆然としていた。
「あの子、そんなことを考えていたのね……」
「妊娠に気がついていたのに、俺に言わなかったのは、日本に残されたくないからだって言ってました。
ブラントさんに会いたいから、イギリス行きを中止されたくないから、言わなかったんだって……
俺、誤解してました……」
「里桜のわがままだと思うわね、私だって、今の今までそう思ってたもの……陽菜子、どうする?」
「私は、あの子の気持ちはわかるわ。あんな思いは、もう二度としたくないもの……
祐斗さん、里桜がしたいようにさせてください。私からもお願いします」
立ち上がった祐斗へ、陽菜子は小さな箱を渡した。
「里桜に渡してください」
「指輪ですか」
「えぇ、私が由希也さんからいただいた婚約指輪です」
「本当は高辻家にお返ししなくてはいけない物ですけれど、紀明さんが、いつか里桜に渡してほしいと、そう言ってくれたの。
里桜を産むとき、この指輪をずっと握っていたんですよ。里桜のお守りになるのではと思って持ってきたの」
「わかりました」
箱を手にした祐斗が奥の部屋に入り、里桜と一緒に出てくるまでのあいだ、陽菜子と小枝子は里桜の小さい頃の思い出話をしてすごした。
部屋から出てきた里桜は、顔を涙で濡らしながら陽菜子のもとに駆け寄った。
ころばないで、と声をかけた祐斗の声はかすれ、小枝子は声にならない声で泣き始めた。
窓から広場にそびえるツリーの灯りが見える部屋は、優しい涙があふれていた。
この日のことを、クリスマスを迎えるたびに里桜は思い出した。
翌年の3月、予定日より遅れて女の子を出産した里桜は、その翌年の秋、男の子を出産した。
祐斗と里桜が日本に帰国したのは、親友の健太と若葉の結婚式の一回だけ。
4年に渡る海外赴任から戻ってきたとき、里桜は三人目の子どもを腕に抱いていた。
久しぶりに訪れた 『円行寺』 の庭は、花の香りに包まれていた。
上のふたりの子どものにぎやかな声を聞きながら、祐斗は開いた花に顔を寄せた。
香りをかぎながら、花が好きだった母を思い出し、それから知り合って間もない頃の里桜を思い出した。
あの頃の里桜は、人知れずそっと咲く花のようだった。
うつむいた蕾に気がつき、やがて甘い香りに惹かれていった。
里桜が大切な人になったのはいつだったのか、いまとなっては思い出せない。
里桜に良く似た幼子が、おぼつかない足取りで懸命に歩み寄る姿が見えて、祐斗はゆっくり立ち上がった。
花の香りが広がる庭は、花の盛りを迎えていた。
・・・・・ 完 ・・・・・
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
お読みくださいましてありがとうございます。
Yahoo!ブログから引っ越し後、ブログ内のリンク切れの削除や、文字サイズの訂正など、ただいま修正中です。
- 関連記事
ランキングに参加しています