カウンターの男が手にしているのはキューバ産の葉巻だった。
葉巻の魅力に取り付かれた男の叔父が、いい葉巻があるという不確かな情報だけでキューバに飛んで百本ほどの葉巻を手に入れた。
しかし、叔父はその後肺を患い、医者に止められ泣く泣く手放した。
他人にやるのは惜しいと、叔父の事務所とともに無理やり押し付けられたが、吸ってみると香りに魅了され、すっかり葉巻党になった。
もらい物だからと、極上の葉巻に惜しげもなく火をつける。
女性が一緒の場合は手にしない。
香りがきついと敬遠する女が多いのがその理由だった。
顔なじみのバーテンダーは、岩城の姿を目にすると、彼が注文もしないのにグラスとチーズを出してくる。
彼が厳選したチーズに対して食通の岩城がコメントを述べるのを、今か今かと待ちわびているのだが、そんなことはおくびにも出さず、何食わぬ顔でグラスを拭くのを岩城は知っていた。
岩城は葉巻を一本吸っただけで、灰皿を下げるようにバーテンダーに目配せする。
それだけで、これから女の客と約束があるのだと彼は察するのだった。
「フルーツの盛り合わせをご用意しましょうか」
「そうですね。お願いします」
客の空気を読み、女性客を迎える準備に入るバーテンダーに岩城はいつも感心する。
バーテンダーの名前は辻村と、それだけしか知らなかった。
「あの……岩城さんですか?」
岩城に近づいた女が、顔色を窺うように呼び掛ける。
見るからに良い物を身につけ、不幸という言葉から一番遠いところにいると思われる、綺麗に着飾った女だった。
そんな女ほど寂しさを抱えているのだと、この仕事を始めてから岩城は感じていた。
「波木さんですね。どうぞこちらへ」
隣の席を勧めると、彼女が行儀よく腰掛けた。
「カクテルにしますか?」
「えぇ……でも、私よくわからないのでお任せします」
「こちらに、口当たりの良い物をお願いします」
バーテンダーの辻村は軽く頷くと手を動かし始めた。
今夜の女性の雰囲気に合わせてカクテルが作られる。
フルーツを切るためナイフを扱う指先が、芸術家のように繊細に動きだした。
「波木さんとお呼びした方がいいですか。それとも……」
「マリでお願いします」
奥様然とした風貌からは、おそよかけ離れた毅然とした声だった。
「マリさん……お名前はどんな字ですか」
「麻布の麻に里と書きます」
「優しい印象の字ですね」
岩城がそう言うと緊張がほぐれたのか、麻里は軽く微笑んだ。
優しいと言われて嫌がる女はいないことを岩城は心得ている。
女の名前の字を聞くのは、依頼者を和ませるための彼の常套手段だった。
そして、「優しい名前ですね」 と言うのを忘れない。
辻村は、そんな様子を何度となく目にしているのに顔色一つ変えない。
「岩城さんのお名前は、なんとおっしゃるの?」
女がさっきより砕けた話し方になった。
「シンジです。慎み深いの慎に、数字の二、慎みが二つです」
「まぁ、では紳士でいらっしゃるのね」
この答えを何度聞いたことだろう、慎みと聞いて女たちは安心するのだ。
親からもらった名前がこんな風に役立つとは……
名前をつけてくれた親に感謝である。
岩城は偽名を使わない、いつも本名を名乗る。
同業者の中にはトラブルを避けるために、依頼のたびに偽名を名乗る者も多いが、岩城はそんなことはしないし、トラブルになったこともなかった。
それだけ、彼の仕事は綺麗だという証でもあった。
叔父から引き継いだ仕事は、「探偵事務所」 の看板を出しているが、他の探偵事務所と違って素行調査や探し物などの仕事は請け負わない。
依頼主は女性ばかり。
『貴女の心の亡くし物 探します』 と、なんとも不明瞭な宣伝文句が評判を呼び、見た目にはわからない、心のトラブルを抱えた女性の問い合わせが多い。
依頼の内容は、本当に心の不安だったり、愚痴だったり、たまには話し相手になってほしかったなどど、そんな理由の依頼人もいた。
岩城の甘い容姿も手伝って依頼は絶えなかった。
「麻里さんは身のこなしが綺麗ですね」
「あら、どうしてそんなことがわかるんですの? まだお会いしたばかりなのに」
「わかりますよ。まず、椅子の座り方が綺麗だ。
初対面の人に会うとき、食べる動作には気を配るのに、それ以外はおざなりになってしまう人が、結構います。
よほど身についたものでなければ、立ったり座ったりの動作の美しさは、そう簡単には出来ないものですよ」
「うふふ……嬉しいことをおっしゃるわ。私ね、小さい頃から日舞を習っていましたの。
厳しい先生で、踊りだけではなく、日常の動作もこと細かく注意される先生で、いつの間にか身についたのでしょうね」
「麻里さん、それは素晴らしい。何気ない動作が美しい、それは財産ですからね」
岩城の口が滑らかに動き出した。
辻村は、岩城がどのようにして女性の緊張を解きほぐすのか毎回興味があった。
今日の相手は、まぁ楽な方であろう。
本当に育ちの良さがにじみ出ており、それを惜しげもなく褒めれば良いのだ。
女たちは、男の口からの賞賛の言葉を、ことのほか喜ぶ。
女の良い面を見つけ出し、気持ちよくさせるのも岩城の仕事でもあった。
麻里にとって身のこなしが美しいと言われるのは、顔が美しいと言われるより嬉しい。
何もかも手にした女が行き着く先は、誰かに自分自身を認めて欲しいと言うこと。
顔ではなく、物でもなく、形のないものにこそ価値を見出して欲しいのだった。
相手がどうしたら喜ぶのか、それを見つけ出す才能が岩城にはあった。
「さっきから気になっていたのですが、麻里さんの悩みはかなり深刻のようですね」
「わかりますか? 顔に出てました?」
「いえ、そんなことはありません。どことなく、僕がそう思っただけで……
そろそろ話していただけませんか。話すだけで楽になることだってありますから」
これも岩城のテクニックだと、辻村はカウンターの中でグラスを磨きながら、ニヤリと笑いたいのを我慢している。
悩みや苦悩があるから人に相談するのだ。
楽しく悩みのない人間は、わざわざ金を出してまで人に会おうとはしない。
深刻な悩みがありますねと断言され、それでは聞きましょうと、飛び切りの男に言われて話さない女はまずいない。
「主人の会社が思わしくなくて……今までも、何度もそんなことはあったのに。
今回ばかりは私と話もしたくないようで、余計な口を挟むなと…
でも、私はなんとか役に立ちたいのに。
こんなこと、依頼して良かったのかしら」
「大丈夫ですよ。僕の方が聞きましょうと申し上げたのですから
そうですか……麻里さんの失くされたものは、ご主人のあなたへのお気持ち……ですね」
麻里は夫の心配をしながら、その実、自分がかまってもらえない寂しさを訴えているのだ。
こんな場合、優しい男友達を演じるのが一番だった。
「あなたが、ご主人の仕事のことに口を挟むのを嫌がるのは、あなたに心配をかけたくないからです。
そんなときは、何も心配していないといったように、さりげなく接してあげるのがいいでしょう。
家で気持ちよく過ごせるよう、ご主人が帰ってきたときリラックスできるよう、家の中を整えてみてはどうでしょう」
「そんなこと、いつもやってますわ」
「そうでしょうか。麻里さん、暗い顔をしてはいませんか?
笑顔でご主人を迎えていらっしゃいますか?
そうじゃないでしょう。そこが難しいところですが、あなたなら出来ますよ」
「そうね……でも、本当に私なら出来るかしら?」
「えぇ、できます。それから、ご主人お仕事を差し支えない程度に教えていただけますか。
役立ちそうな情報を探しておきます。
言っておきますが、これは、僕が探した情報ではなく、麻里さん、あなたがご主人のために心を砕いたのだと思わせることが重要ですからね」
「主人は信じてくれるかしら」
「さりげなく、ご主人の書斎に書類をおいて、決して、あなたのために用意したと言わないこと。
それだけです」
「それなら、私にもできそう」
会話のたびに女の名前を呼ぶ。
そうすることで、より親密な関係が生まれるのだ。
今日は楽勝だなと、カウンターの中の辻村は確信した。
女が岩城に寄りかかることも、手を握ることもなく、気持ちはすっかり岩城に傾いている。
それでいて、彼女は夫のために尽くす妻を演じようとしている。
カウンター席の二人は、情報交換のための打ち合わせに入った。
「この方にカクテルをお願いします。少し刺激のあるものがいいかな」
岩城の満足そうな笑顔が、乾杯のためのカクテルを注文する。
打ち合わせが済み椅子を降りる際、女の足がふらついた。
すかさず岩城は女を支える。
それも、女の腰を力強く支えるように引き寄せる。
女の顔は、嬉しさと恥ずかしさとが入り混じった、なんとも良い顔になるのが辻村から見えた。
店の出口まで麻里を送って行った岩城は、席に戻ると再び葉巻に火をつけた。
「慎二さん、もう一杯いかがですか?」
「いただきます……叔父から引き継いだ仕事とはいえ、この仕事、男の一生の仕事かどうか……」
”そんなことはありませんよ” と、辻村は答えたきり、それ以上は踏み込まない。
辻村は、彼の女性を扱う非凡な才能に一目を置いている。
慎二の叔父の岩城正巳も、ここで、こうして仕事の打ち合わせをしていた。
正巳も女の扱いは上手かった。
「いい跡継ぎが出来たんだ」
嬉しそうに話していた岩城正巳は、仕事を甥の慎二にすべて引き継いだあと亡くなった。
岩城慎二がこれから先、どんな顔を見せてくれるのか 辻村の楽しみになっている。
ただ、叔父のように葉巻が似合う男になるには、もう少しかかりそうだとも思っていた。
「チーズ、まだありますか? 塩加減が絶妙ですね」
慎二の答えに満足して、辻村はカウンター奥の倉庫に入っていった。
岩城の吐き出す煙が漂う。
新しいチーズの皿が差し出され、グラスを軽く上げる岩城の顔は、先ほどの女のことなど忘れたように 一人の時間を楽しんでいた。
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