【ボレロ】 6-6 -天使の羽 -

 


いつまでもベッドのぬくもりに浸っていたくて、そこから抜け出せない朝もあるけれど、

今朝は横たわっていることが苦痛になっていた。

目が覚めてからというもの、みぞおちから胸のあたりにこれまでに感じたことのない不快感があり、
 
寝返りでごまかしていたがそれも限界となり、重い体を起こしてベッドヘッドに背を預けた。
 
目に入った時計は、まだ充分に朝の時刻を示し、宗が出掛けてから数十分もたっていない。
 
大丈夫だからと強気な姿勢を見せて彼を送り出したが、もう少しそばにいてもえらえば良かった。
 
宗の手に抱えてもらったなら気分の悪さも半減したのにと、いまさら思っても仕方のない後悔をする。

上半身を起こすと少しだけ楽になったが、それも気休め程度で根本的な解消には至らず、そこへ喉の
 
渇きを覚えてベッドを降りた。


ふらつく体を支えながらベッド脇へ回り、ウォーターピッチャーから一杯の水を飲んだ。

喉から体の隅々に行きわたった水によって潤いが戻り、ようやく本当の目覚めがやってきた。

水一杯で、先ほどまでみぞおちに感じていた嫌な感覚も薄らいだのだから不思議なもので、

さらには忘れていた空腹まで思い出し、そうなると食欲に駆られていてもたってもいられなくなった。

洗面と着替えを済ませ、メイクが整のったのを見計らったようにノックの音が聞こえてきた。

私の体調を心配した大叔母さまだったが、出迎えた私の身支度が整っていることに驚かれた
ようだ。



「珠貴さん、ご気分はいかがかしら」


「ご心配をおかけしました。落ち着いてまいりました」


「無理をなさってはだめよ。お熱があるのでしょう? お医者様をお呼びしましょうか」


「微熱ですから、大丈夫だと思います」



私に熱があると宗から聞いたそうで、お熱は測ったの? と心配顔で覗き込まれ、いいえ……
 
と顔を横に振った。

大丈夫かしら……と言いながら、私の額に当てた大叔母さまの手に体が癒されていく
思いがした。



「高いお熱ではなさそうね。お食事は? 
 
食欲もないでしょうけれど、なにか召し上がったほうがよろしいわね」


「実は……空腹で起きたところです」


「それはいいことだわ。食はすべての源ですもの。では、参りましょうか」



大叔母さまは私の腕を取り、抱えるように支えながらダイニングへと向かった。

姿をあらわした私を見て、佐山さんの顔が微かに曇り、お加減はいかがですか、宗一郎さまも
 
ご心配のご様子でいらっしゃいました、 とすかさず声がかけられた。

近衛家を取り仕切る佐山さんは、家のことすべてが目配りの対象で、ハウスキーパーの役目だけで
 
なく執事の役割もこなしている。

この家の家族の健康にも注意をはらう立場であり、私の体調にもいつも気を配ってくれていた。



「軽いお食事を用意いたしましょう」



キッチンに下がった佐山さんの指示か、しばらくして私の前に口当たりのよさそうな食事が
 
並べられた。

大叔母さまも一緒にテーブルにつき、紅茶を召し上がっている。

家族が一人で食事をすることがないようにというのが大叔母さまのお考えで、私も宗も遅い帰宅で
 
あっても、いつも誰かが食事のテーブルに一緒だった。

会話のある食卓は楽しいもので、疲れて食欲がないと思うときでも食が進んだものだ。


空腹を感じていたはずなのに、いざ食事を前にするとそれほど食欲はわかない。
 
それでも食べなければの思いから、スプーンを取りスープをすくう。
 
コンソメスープの優しい味に安心したのか、デニッシュの香りに誘われ食べたい衝動にかられ
 
デニッシュへと手が伸びた。

ひと口ふた口と、続けて口に入れバターの香りを楽しみつつ味わっていたが、鼻に抜けるバターの
 
香りに顔がひずみ、 ちぎったパンを皿に置いた。



「無理に召し上がることはないのよ。食べたいものを、食べたいときに食べること。

食事を残さないことも大事よ。でも、お食事にストレスを感じてはなにもならないわ」


「はい……」

 
 
ふたたびスプーンを取ってスープを口に運んだが、スープを飲み終えるとため息が出ていた。
 
私のため息に気がついたのか、大叔母さまが無理をしないのよとおっしゃって……

 

「珠貴さん」
 
 
「はい」
 
 
「お体も心配事も、やがて時が解決するでしょう。大丈夫、気持ちを楽にね」


「大叔母さま、あの……」


「宗さんにもちゃんとお話して、ねっ。 デザートはいかが?」
 
 
「少しいただきます」


「良かった。今朝は、そう……コーヒーは重いわね。ハーブティーも香りが気になるでしょう」



何も言わなくてもわかっていますよ、と私に暗に告げ、話はそこで終わりとして、温かい飲み物が
 
いいわと話題が変えられた。

心得たように佐山さんが応じる。



「お白湯をお持ちいたしましょうか」


「そうね」



大叔母さまは、私の体の変化に気がついていらっしゃる。

それなのに、何もおっしゃらない。

まずは夫婦で話をしなさい、そういうことだと受け取った。

大叔母さまのお気持ちが嬉しかった。





午前中をベッドですごす私に、宗から電話があった。

熱はどうか、体は? と聞かれたが、早急に治るものではないとわかっているため、 今朝と同じく 
 
「大丈夫よ」 と伝えた。
 
「今日は早く帰るから」 の声に、宗の優しさを感じた。

まだ予測の範囲ではあるけれど、彼に伝えた方がいいとはわかっているが、 もしも……の思いが強く、
 
告げることができずにいる。

一日で回復するはずの体調が午後も思わしくなく、私はさらに2日間の休暇を取った。


電話の通り、早く帰宅した宗も一緒の夕食の席で、急な出張があると話があった。



「3日間の出張だ。珠貴が具合が悪いときに留守にしてすまない」


「お仕事ですもの。大叔母さまもいらっしゃるから心配はいらないわ。それに佐山さんやみなさんも」


「そうですよ。こちらは大丈夫ですから」



そうおっしゃった大叔母さまだったが 「そうだわ」 とひらめいたお顔になった。



「珠貴さん、ご実家に帰られてはどうかしら。そうよ、それがよろしいわ。

お母さまに甘えておいでなさい」


「それはいい。さっそく須藤のお義母さんに電話しよう」



宗は私の返事も待たずに須藤の実家へと電話をかけ、自分が留守の間預かってほしいと言った
 
のだが、実家の母の返事は 「お引き受けいたします」 だったそうだ。
 
宗から電話を代わった大叔母さまから、実家の母へ丁寧なご挨拶があり、
 
「珠貴さんをよろしくお願いいたします」 と家長としてのお願いがあった。

母の返事や大叔母さまの言葉から、私は近衛家の人間になったのだと改めて実感した。




翌日、佐山さんに見送られ私は実家へと帰った。

仕事は秘書の和久井さんが万事心得ているので心配はない。
 
休暇のあと週末の休日に入るため、連続5日間の休みとなった。

日曜日まで過ごしていらっしゃいと大叔母さまは言ってくださったけれど、私は2日で帰るつもりでいた。
 
家で宗の帰りを待ちたいと思ったからで、こんな風に考えるのも実家が遠くなった証拠かしらと思った。

 
2日間で私が考えなければならないのは、体のことと夫婦のこと。

実家の母に相談して病院に行くべきか、それとも近衛の義母に相談するべきか、それさえも
 
決められずにいる。

なにより、宗に伝える前に行動していいものか、それこそが迷うところだった。


実家までのそう長くもない距離を走る車の中で、私はたくさんの迷いを抱えることになっていた。

女性として相応の知識はある。

この数日の体調からも間違いはないはずで、体の周期は疑いのない数字をはじき出し、

なにより体調の変化が顕著なのだから、それは確信に近い。

その確信を、私は喜びだけで受け止めることはできないのだ。


それらを意識して体感するのは初めてだったが、そのものは私にとって初めてではない。

数年前、疲労とストレスによる倦怠感だと思い込んでいた私は、突然の出血で倒れて、そこで初めて
 
体の変化を知った。

残念な結果は、私自身の未熟さが引き起こしたことだ。

時がすぎ、心身の痛みは和らいだが、後悔だけは今も残っている。


宗に知らせていいものだろうかとの迷いは、過去の痛みを繰り返したくないからでもある。

安易に伝えて彼に喜びを与えた後、また同じ繰り返しとなったなら、宗を悲しませるだけ。

いずれ家族が増えたら……と、迷いもなく口にする夫となった彼に、本当の笑顔を与えたい。

ともに幸せを分かち合うために、私は慎重になっていた。



実家に帰るのは、さほど久しぶりでもないが、結婚後泊まったのは正月の一日だけ。

2日間も泊まるなど、滅多にないことかもしれない。

私の帰宅を心待ちにしていたとの母の言葉に、鼻の奥が熱くなった。
 
お茶をどうぞと誘う母へ、 「こちらで失礼いたします。珠貴さま、お大事に……」 と、私を気遣い
 
ながら帰る佐山さんを玄関まで送った。
 
佐山さんの言葉を聞いた母が 「どうしたの?」 と聞いてきた。

「少し体調を崩したの。倦怠感と熱があるけれど、たいしたことはないのよ」 と言う私を、それでも
 
眉を寄せて心配するのだろう。
 
だから心配はない、大丈夫と言葉を用意していた私は、母の予想外の言葉に息をのんだ。



「珠貴ちゃん、いつなの? どうして教えてくれなかったの! 」
 
 
「えっ……」


「お食事は? その様子ではあまり食べられないようね。つわりが始まったばかりね。
 
ということは……来年の1月か2月くらいかしら。お医者さまはなんとおっしゃったの?」



矢継ぎ早の質問に、ただ唖然として何一つ答えられない。

返事のない私へ、なおも母はいつかと聞いてくる。

私は、やっとの思いで声にした。



「お母さま、私、まだ何も言ってませんけど」


「娘のことは母親にはわかるものなのよ。お顔や体の様子が、いつもと違うもの。
 
それにあなた、微熱と倦怠感があると言ったでしょう。 ほかに何が考えられるの。
 
嬉しいわね、珠貴ちゃんに赤ちゃんが授かったんですもの」



疑うことなく喜ぶ母を目の前に、私は次の言葉探しに懸命だった。

玄関ポーチの脇にいる妹の家庭教師である遠堂君や、木々の手入れに余念がない北園さんが
 
近くにいることにも気がつかず、違うのよと言うべきか、そうなのと言うべきか、またも迷う。

手入れの行き届いた樹木を抜ける風は柔らかく、熱のある体には気持ちが良い。

春の風が心地良い午後のことだった。 



  
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6 Comments

撫子 s Room  

No title

1:08ナイショのコメントさん

珠貴の過去です・・・
辛い時期を経て宗一郎に出会いました。

更新楽しみです、のコメントとても嬉しいです!

2013/05/07 (Tue) 18:41 | 編集 | 返信 |   

撫子 s Room  

No title

千菊丸さん

隠していたつもりの珠貴も、母の目は欺けず・・・
娘の変化には敏感な母です。

以前のことがあるので、なかなか言い出せない珠貴です。
宗一郎が知ったら、喜ぶとは思うのですが・・・
次回へつづきます。

2013/05/07 (Tue) 09:12 | 編集 | 返信 |   

撫子 s Room  

No title

mizuyoonさん

珠貴はそういうことだったようです^^

>このあたりは女性ならではの描写で・・・

ありがとうございます。
つわりも個人差がありさまざまでしょうが、あのなんとも言えない
気分の悪さ、倦怠感など、できるだけ細かく再現したくて・・・
書きながら、まるで自分が体験しているような気になりました。
(つわりって、本当に厄介ですね)

母親のカンは娘に対して鋭く働くのでしょう!

珠貴はいつ宗一郎に伝えるのか。
いつもの彼女らしくなく、こんな一面もあるようです。

2013/05/07 (Tue) 09:07 | 編集 | 返信 |   

千菊丸  

No title

やっぱり、妊娠だったのですね。
女性にしかつわりの辛さはわかりませんからね。

ただ、病院でちゃんと診察しないと確定しませんからね。
宗一郎さんの反応が楽しみです。

2013/05/07 (Tue) 08:59 | 編集 | 返信 |   

撫子 s Room  

No title

6:38ナイショのコメントさん

いつもありがとうございます^^

お問い合わせの箇所ですが・・・

「ボレロ 第一部 57-6」
このあたりに、珠貴が過去を語る場面があります。
参考にしてくださいね。

自分で書いたものなのに、私も時々読み返しながらエピソードの確認をしています。
おまけにわかりにくいサブタイトルですから^^;

これからも、よろしくお願いします。

2013/05/07 (Tue) 08:51 | 編集 | 返信 |   

mizuyoon  

No title

おはようございます。

珠貴さん、やっぱりそうだったのね。このあたりは女性ならではの描写で、思わず自分のときのことを考えてしまいました。それにしても母親の感ってすごいですね。珠貴さん、躊躇していないではやく吉報を宗さんに伝えてあげてください。

2013/05/07 (Tue) 08:33 | 編集 | 返信 |   

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