【ボレロ】 6-7 -天使の羽 -


 
 
実家の私の部屋は、以前のままそこにあった。

里帰りで使うこともあるでしょうとの母の言葉通り、今日と明日はこの部屋で過ごすことにした。

幼い頃から慣れ親しんだ場所で、家具もカーテンも飾られた絵も変わりなくそこにあるのに、
 
部屋の雰囲気が変わったような気がする。

この部屋が一番くつろげたはずなのに、いまはどこかよそよそしさがあり、自分の居場所ではない
ような違和感があった。

部屋だけでなく実家に帰るたびにその感が強くなり、近衛の家に戻ると安らぐのは、ここはもう私の
場所ではなく、宗と暮らす家が私の家であり、くつろげるのは夫婦の部屋ということ。

結婚してまだ一年とたっていないのに、実家はもう遠いものになっていた。



「お部屋はいかが? 懐かしいでしょう」


「お母さま……」


「懐かしいけれど自分の部屋ではないような、そんな気がするでしょう」


「お母さまもそうだったの?」


「えぇ、結婚しても実家への思いは特別ですもの。
 
恋しさと懐かしさで飛んで帰りたいと思ったこともあったわ」


「そうね、いまの生活に不満なんてことはないのに、無性に帰りたくなるときがあるわね。

お母さまのお茶がいただきたくなったり、なんでもないことを紗妃ちゃんとおしゃべりしたくなったり」


「でもね、帰るたびにその思いが変わっていくの。
 
あなたが生まれて、しばらく実家にいたけれど落ち着かなくて、 須藤の家に帰りたくなったわね。
 
おばあちゃまが言っていたわ、女はそうやって家に馴染んでいくものですって」



母とこんな話ができるようになったのは、嫁ぐという同じ経験したことにもあるが、結婚してからというもの、母の気持ちを推し量ることが多くなっていた。



「さぁ、聞かせて。私たちの天使はいつ降りてくるのかしら?」


「それが……」


「まさか、まだ病院で受診していないなんてことはないでしょうね」


「そのまさかです……」


「珠貴ちゃん!」


「だからね、それをお母さまに相談しようと思っていたの。

病院ならどこでもいいというわけにはいかないでしょう?

近衛の名前を出さなくてはならないんですもの」



呆れて驚く母は私の言い訳に一瞬ひるんだが 「でもね」 と意気込んできた。

一歩前に出る勢いの母を抑えて、私は言い訳に理由を添えた。
 
 

「近衛のお義母さまにお話して、病院を紹介していただこうと考えたのよ。

だけど、先にお母さまに伝えたかったの。それに、彼もまだ知らないのよ」



釣り上がった目が元に戻り、目尻にほんのりと嬉しさを漂わせているのに、母はそれを悟られまいと
懸命になっている。



「宗一郎さんもご存じないの? あなた、それこそ先にお知らせするべきでしょう」


「でも、もし前みたいなことになったら、彼にぬか喜びさせてしまうわ。
 
流産を繰り返す人もいるそうですから……」



勢いで宗に言えずにいる理由を口にしたのだが、最後の言葉に母は顔をゆがめ、喜びを見せた眉が
辛そうな形へと変わった。



「あのとき、先生もおっしゃったでしょう。
 
流産だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。
 
判断がつかない時期だったって」


「それでも可能性は残っているわ。私が出血で倒れたのは事実ですから。
 
またそうならないとは言えないでしょう。だから……」


「あなた、そんな心配までしたの」



一瞬にして重い空気に包まれた。

母にとっては認めたくない娘の過去であるだろうが、出血で倒れた事実をなかったものにはできない。

繰り返す可能性もあると知り、私は慎重に成らざるを得なかった。



「もしかしてなんて憶測ではなくて、間違いないとわかってから、宗一郎さんに話をしようと思ったの」

 
 
私の言葉に母は沈黙し、深いため息だけが部屋に溶けていく。
 
息苦しい静けさだったが、あえて私も言葉を控えた。
 
 

「そうね……先生に診ていただいて、それから宗一郎さんにお話したほうがいいわね。 
 
近衛のお名前がありますからね、病院ならどこでもいいと言うわけにはいかないでしょう。
 
あなたの判断は賢明だったわ。
 
産院は大事ですもの、これから近衛のお母さまにお話して相談に乗っていただきましょう」


「はい」


「体調が悪くなったのはいつごろから? 最終月経は確認しているわね」


「匂いに敏感になったのは、今月に入ってからかしら。

胸や胃が重くなったのは先週くらいから、昨日は食事も残してしまって、今朝はスープだけ。

それから……」



体の秘密を明かすなど、親子であろうともあまりあることではない。

けれど、いまは経験者である母に頼る思いと、一人で抱えてきた重さを軽くしたいがために、
 
必死になって話していた。



「……あなたを妊娠したときと同じ、つわりの症状が私とそっくりよ。
 
母親と娘は似るそうですけど、本当ね。 私もね、妊娠に気がつく前に体調を崩したの」 


「だから、私のこと、すぐにわかったの?」


「母親は娘のことはわかるんです」



得意そうな顔は晴れやかで、これから近衛のお義母さまにお電話してくるわねと、足取りも軽く部屋を出て行きかけたが、その背中が不意に止まった。



「珠貴ちゃん」


「はい?」


「厳しいことを言うようだけど……前のことは忘れなさい」


「えっ……」


「過ぎたことは過ぎたこと、もう忘れるの。
 
あのときの出血が流産だったとしても、その子は生まれる運命にはなかった、そういうことよ。 もしもと考えるのはおやめなさい。
 
宗一郎さんと結婚したのは、あなたがそういう運命だったからよ。
 
これからは、宗一郎さんと一緒に将来を築いていくの。

後ろは振り向かず、前だけをみなさい。いいわね」


「はい……」



母の言葉は見事に私の心の中を言い当てていた。

もしも……と考えたことが何度あっただろう。 

忘れなさいという言葉は厳しいものだったが、迷う私に指針を示してくれた。

これまでのことは、宗に出会うための布石だったと……母は私に言いたかったのだ。

母の強さと優しさに心が震えた。
 
このとき、長く引きずっていた過去から開放された思いがした。 







そこは、初めての場所ではなかった。

一年前、静夏ちゃんが冬真を出産した病院で、私も宗と一緒に二度訪れた。

陣痛室も兼ねた部屋はホテルの一室を思わせる造りで、病院の中であることを忘れるほど、
落ち着いた空間だったと記憶している。


母から話を聞いた近衛の義母の対応は早く、本日の夕方には受診できると折り返しの電話があった
のだから、義母の動きは迅速だったというほかはない。

おっとりとすべてに落ち着いている近衛の義母が、ときどき見せる行動力に驚くのはこんなとき。

その一方で 「私もご一緒してもよろしいかしら」 と、病院へ同行したいと控えめに聞く声に嬉しさを
にじませる、そんな可愛らしい姿もみせてくれるのだった。

私たちが院内に入ったのは、静夏ちゃんの見舞いに訪れた際の玄関ではなく別の入り口で、受診する人のプライバシーを守るための配慮だろう、定期健診や一般外来の方々に会うことなく
入ることができた。



「佐藤先生は、私もお世話になった先生ですの。
 
上の二人のときも、静夏のときも佐藤先生が主治医でしたから、30年以上のお付き合いね。
 
そのころはまだお若くて、こんな可愛らしい方で大丈夫かしらと思ったのよ。

私も若かったのね、失礼なことを思ったものだわ」


「女性のお医者さまですか」


「えぇ、こちらの産科にいらっしゃったのは、10年くらい前かしら。

昨年は静夏がお世話になって、今度は珠貴さんね。嬉しいわ」



信頼してすべてを預けられる先生がいる病院だから、それが義母がこの病院を選んだ理由であると
知り、義母らしいと思った。

出産のための産院選びに躍起になっていると、友人たちから聞いたことがあった。

子どもの将来のためにも、名の通った病院で産むことが大事であると聞いて、そんなものかと
思いながら、私の中にはどこか否定する気持ちがあったのは、 病院名をブランドととらえる彼女たちの姿勢に疑問を持ったからだった。 

ブランドにとらわれない義母の姿勢は、宗にも受け継がれている。

近衛の家に嫁いで価値観の相違を感じたことがなかったのは、こういうことなのかと納得した。


話が弾む母たちに断り、レストルームへと立った。

ここも一般外来と交わることはなく、くつろげる空間だった。

近衛珠貴として診察を受ける際、できるなら第三者との接触は避けたいもので、その点ここは、
すべてにおいて安心だった。

人気のないレストルームへ、身だしなみを整えるために足を踏み入れた私は、そこで大きく驚いた。



「美那子さん」


「えっ、珠貴さん」



私以上に驚きの声を上げたのは、沢渡美那子さんだった。

宗が異臭事件に巻き込まれことがあり、そのとき、被害者の対応に当たったのが美那子さんの
ご主人の沢渡先生だった。

事件のかかわりから、宗と沢渡先生はマスコミに追いかけられて、そんなことから二人は親しくなり、私と美那子さんも知り合いになり、それ以来のお付き合いが続いている。

ここでお会いするということは……

見るともなしに美那子さんの腹部に目がいった。

目立たない程度ではあるものの、丸みを帯びた腹部は一目でそうとわかるもので、気安く親しい
美那子さんだから、つい軽口がでていた。



「美那子さん、隠していらっしゃったのね」


「いえ、あのね……そうなの……だって、恥ずかしいじゃない」


「恥ずかしいなんて、そんなことありませんから。わぁ、あかちゃんは何週目ですか?」


「16週よ。5ヵ月に入って腹帯を巻いたら、急に目立っちゃって。隠せないわね」


「えっ、ではこの前旅行にご一緒したときは、もう……」


「実はそうなの。旅行は蒔絵さんを理由にしちゃったけど、自分のためでもあったの。
 
だって、これから自由がきかなくなるでしょう?
 
でも、まさか、こんなところで珠貴さんにお会いするなんて思わなかったわね。あはは……」



ほかには誰もいないレストルームに、美那子さんの笑い声が響く。
 
蒔絵さんの出産予定日があと一ヶ月となった先月のこと、
 
「生まれたら自由になれないでしょう。だから、この機会にみなさんで旅行しましょう」 
 
という美那子さんの提案で、一泊で出掛けた。
 
狩野さんの奥様の佐保さんも、この夏出産を控えていて、旅行なんて当分無理ですからと、
 
参加されたのだが、まさか美那子さんも同じ理由だったとは。
 
つわりはどうでしたかと聞くつもりで 「美那子さんは……」 と言った私の声と、美那子さんの声が重なった。



「えっ、ちょっと待って! 
 
珠貴さんがここにいらっしゃるということは、ねぇ、そうなの?」


「えっ、まだ、そうと決まったわけでは……」


「では、これから診察ね」


「えぇ、まぁ……」


「わぁ、嬉しい。同級生よ! 蒔絵さんも、佐保さんも、珠貴さんも。
 
これからも仲良くしてくださいね」


「ですから、それはまだ」
 
 
「いいえ、この時期におめでたが分かったら、同級生に決まってるわ
 
 
 
まだ確定していないからだと言いたかったのに、美那子さんは私に言葉をはさむ暇も与えず話を続けている。

 

「克っちゃんに教えたら喜ぶわ。 みなさんのお子さんと同級生のパパになるんですから。

ねぇ、宗一郎さん、どんな反応でした? ウチはね、飛び上がって喜んだのよ」


「それが、まだ……」


「まだって、えっ! 言ってないの? 早く教えてあげて。きっと大喜びよ。
 
蒔絵さんが春の出産でしょう。佐保さんが夏、私が秋。珠貴さんが冬なのね。
 
少しずつ月齢の違う子どもがいるのね。並んだら、さぞ可愛いでしょうね。
 
そうそう、先ほど蒔絵さんの赤ちゃんに会いに行ったのよ。もう可愛くて可愛くて」



美那子さんの興奮は冷めず、二人だけのレストルームがにわかににぎやかさを増していた。
 
蒔絵さん、佐保さん、美那子さん、それぞれの腕に赤ちゃんを抱っこして集まって、
 
その中に私も…… 
 
さきほどまで感じていた妊娠の不安は、もうどこにもなく、昨夜まで気にしていた藤原玉紀さんのこともどこかへ消えていた。 

 
 
 
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2 Comments

撫子 s Room  

No title

千菊丸さん

珠貴の友人たちにも、嬉しいことがあったようです。
珠貴も仲間入りでしょうか。
そして、宗一郎に告げるのはいつ?

2013/05/11 (Sat) 02:12 | 編集 | 返信 |   

千菊丸  

No title

美那子さんも妊娠していたんですね。
珠貴さんと宗一郎さんとの赤ちゃん、早くみたいです。

2013/05/10 (Fri) 22:49 | 編集 | 返信 |   

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