【ボレロ】 6-8 -天使の羽 -
- CATEGORY: 新世界
柔らかな夕方の日差しが差し込む部屋で、私へ嬉しい知らせが告げられ、喜びが広がる胸を押さえ
「特に気をつけることはありません、これまでと変わりなく過ごしてください」
過度な気遣いはかえって体にストレスを与えます、ですから普通にね、と続いた佐藤先生の言葉は
義母から聞いたとおり小柄な佐藤先生はお可愛らしい方で、とても重労働をこなす産婦人科の
白衣を脱いだ姿は、親しみのある年配の女性のお顔でいらっしゃるはず……などと、大事な時で
次の検診は来月です、母子手帳の交付を受けてください、等の先生の言葉にうなずき、
外出が気分転換になったのか、軽い興奮のためなのか、出掛けている間は気分の悪さも
それなのに、帰宅した途端ひどい吐き気に襲われたのは、体調の改善は一時的なものであったと
体に別の命を宿す、それがつわりとなってあわられる。
母がティーポットを温めながらこんな話をはじめた。
「身ごもった女性なら誰しも体験するもの、病気ではないというのは間違いではないでしょう。
でもね、辛いときは辛いと言っていいのよ。個人差があるんですもの、みな同じではないわ。
今の人は我慢が足りない。私は寝込むことなどなかったと自慢なさる方もいるけれど、
あなたも、これからたくさんの方にありがたいお言葉をちょうだいするでしょう。
けれど、それをすべて真に受けていたら大変。半分聞き流すくらいの気持ちでうかがいなさい」
半分聞き流しなさいとは、聞き様によっては乱暴な言い方だが、それこそが自分を守るための心得と
母の言葉通り、それから多くの方から 「ありがたいお言葉」 の洗礼を受けることになるのだが、
「宗一郎さんに早くお知らせしなさい。
「わかっています。でも、電話で話したくないの。彼が出張から戻ったらお話します。
「仕方ないわね。でも、お父さまにだけは話してもいいでしょう?」
「それもできたら……ごめんなさい」
「そう、わかったわ」
「美那子さんにもお願いしたの。まだ、みなさんにはおっしゃらないでねって」
レストルームで話し込んだあと、母たちにも挨拶をくださった美那子さんは
母だけでなく、おふたりにも無理なお願いをしたのだから、できるだけ早く宗に伝えなければと思った。
診察結果を聞いた近衛の義母は、早く誰かに知らせたくてたまらない、そんなお顔だった。
やはり、宗には電話で伝えようか……そう考え直したのに、その日の夜は彼からの電話はなく
翌朝、待ちに待った宗からの電話があり、私は気持ちを決めて言葉を用意していたのだが……
『おはよう。体調は落ち着いた?』
『おはようございます。えぇ、何とか過ごしているわ。そちらは、忙しそうね』
『うん、まぁ……少し面倒なことがあったからね。なんとかするしかないが、手ごわい相手でね』
『それは大変ね』
急な出張であり、副社長である彼が出向かなければならない事態とは、よほどのことだったはず。
声にも厳しいものが感じられ、こんなときに話しても言いのものかと迷いが出た。
それでも話さなければと気持ちを決めたのに、宗……と呼ぶ前に、珠貴と呼びかけられた。
『珠貴、藤原さんから何か言ってくるかもしれない。
『藤原さんが、私に? どうして……』
『とにかく、彼女の話を聞くな。聞いても信じないように。何を口走るかわからないが、全部でたらめだ』
『彼女、何を言うつもりなの?』
『それは、その、俺とどうとか……とにかくすべて事実ではない。俺を信じて、いいね』
『はい』
『それから、あっ、ちょっと待って……平岡、なんだ?……わかった……明日には帰る。話はそのとき』
突然のことに、何がなんだか分からず、わかりました、と返事をするしかなく、結局私は何も伝え
いつも冷静な彼らしくなく、切羽詰ったとでもいうような感じだった。
宗は何をそんなにあわてているのだろう、藤原さんが私に被害を及ぼすとでも思ったのだろうか。
藤原玉紀という女性が、かつて宗と縁談があったと聞かされたのは最近だった。
縁談には事業が絡んでいたような話だったが、藤原さんの件については二年前に決着がついている
先日の藤原さんからの贈り物も、近衛家と藤原家の交際における礼儀のひとつだろうと理解した
けれど、考えてみればいまさら贈り物でもないはずで、送られてきた品について宗もいぶかしんで
宗の話を聞いて大筋は理解したつもりでいたが、そのときすでに体調が悪く、自分の体のことで一杯
一昨日、宗と交わした会話を思い出してみた。
藤原さんについて、隠すことなく私に話し、私だけを見ていると言ってくれた。
誠実な言葉は心に響き、彼の愛情を強く感じたのだった。
『すべてがわかったら必ず話すから』
すべてとは、何をさしているのか。
思い巡らすが、それとわかることは思い浮かばず、宗の必死な顔だけが浮かんでくる。
先の電話も、とにかく必死な様子だった。
藤原さんに直接お会いしたことはなく 『シャンタン』 で一度だけ見かけだけ。
宗に結婚祝いの品を送り、さらに私に会って結婚の祝いでも告げてくれると言うのなら、
体調の悪さも忘れ、私は懸命に頭を働かせた。
どこかにパズルのピースを忘れているような気がしてならないのだった。
探し出せないピースは何か、ヒントを見つけ出そうと記憶を探るが、迷い込んだ迷路は行き場を失って
携帯が着信を告げた。
表示された見知らぬ番号に一瞬警戒したが、お客さまからの大事な電話かもしれないと思い直し
『はい、須藤でございます』
『私、藤原玉紀と申します。突然お電話を差し上げまして申し訳ございません。
『藤原さまでいらっしゃいますか。
藤原玉紀と名乗る声はよく響くもので、申し訳ないと言葉にしているものの遠慮のない声だった。
一方受け取った私のほうは、携帯を握る手が震えていた。
それでも、近衛宗一郎の妻として贈りものへの返礼を伝える声は、自分でも驚くほど落ち着いた
『ご結婚後もそのままのお名前ですのね。では、須藤さんとお呼びしてよろしいですね。
私の礼の言葉への対応はなかったのに、旧姓を名乗った私へ、須藤さんとお呼びしてよろしいですね
会って話がある、それも今日と指定してきた。
伺いますとは、私に会いに来るということで、彼女には私の今の状態は分からないはずであるから、
彼女の一方的な会話は奇異とも思えるもので、会えるとも会えないとも返事をしていないのに、私に
圧倒されながらも、負けるものかと挑む気持ちが沸き起こり、
そのとき、宗から彼女に会うなと言われていたことは頭から抜け落ちていた。
急に出掛けると言い出した私に、母は驚き当然のごとく反対し、どこに行くのか誰に会うのかと、
当初、蒔絵さんの赤ちゃんに会いに行ってきます、と出掛ける理由を用意していたが、今日でなくても
高校までの友人関係は母も把握していたが、大学時代の交友関係はつかみきれてはいないはず、
藤原さんという方です、と会う相手の名前を告げても 「どちらの方?」 と一応は聞かれたが
聞いたところで母にわかるはずもなく、私はそれをいいことに、藤原さんのお父さまは西日本でも
藤原さんは友人などではないが、それ以外の彼女に関する情報に間違いはなく、身元が分かれば
- 関連記事
