【彼と私のバラ色の毎日】 前編
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早めに仕事に区切りをつけ、書きかけの文章を保存する。
いつもなら夕方5時になると、秘書が ”おつかれさまでした” と、そそくさと帰って行くのだが
今日は違っていた。
ドアを出る前に、玄関まで送ってきた私の顔を見ながらニヤリと笑うのだ。
このクセさえなければ、彼女は最高の秘書なのにといつも思う。
「今日ですね この前お帰りになられたのはいつでしたか? 大変なお仕事ですね」
「そうね この前会ったのはいつだったかしら 忘れちゃったわ」
「ふふっ 強がりを言わないでください 今日のために頑張って仕事を終わらせたんじゃないですか」
「そんなこと……ねぇ 彼にはナイショよ わかってるわね」
「えぇ ジュンさんにはナイショです では 私はこれで どうぞごゆっくり」
「じゃぁ来週ね お疲れ様でした」
ジュンが帰ってくるまでの二時間を有意義に使うため、昨夜から煮込んでおいた
食材の最後の仕上げをしていく。
久しぶりに部屋に漂う料理の香りに、彼の帰宅が近いことを感じ、胸の高鳴りに思わず深呼吸をした。
やっぱり動揺している、早く落ち着かなくては、彼の前では常に冷静で落ち着き払った私でいたいから……
全ての準備が済み、いかにも忙しいといった体裁を繕うために、私はまたPCの前に座った。
そろそろ音がするはずだ。
メールで、もうすぐ帰り着くからと知らせてきたので、おおよその時刻はわかっている。
ほどなく鍵をあける音がして、部屋でマネージャーと簡単な打ち合わせをして彼が去って、
それから数十秒後にジュンがそこのドアから現れるはず。
私は、文字を打ち込むつもりのない原稿を前に、隣りの部屋の物音に耳をすませていた。
カチャリと待ち望んだ音がした。
「ただいま」
「あっ おかえりなさい 早かったわね」
「車が渋滞して少し遅れたから あなたが心配してるんじゃないかと思った」
「そうだったの 仕事をしていたら時間の感覚がなくって……もう少しで終わるから ごめんなさいね」
「連載の締め切り前でしょう 僕は大丈夫 待ってますよ」
椅子に腰掛けたまま、上半身だけ向けて彼に返事を返す。
ひと月ぶりに見る顔、本当は走っていって抱きしめたいのに、この厄介な性格がそうさせてはくれない。
しなくてもいい仕事の振りをし、久しぶりに帰ってきた彼を待たせる私は、なんて我侭なのだろう。
シャワーを浴びてきますねと言い残し彼が部屋を出ると、私は大きくため息をついた。
どうして素直になれないのだろう。
”おかえりなさい” と嬉しそうな顔をして、ジュンを抱きしめれば良いのに、
毎回毎回、同じような芝居をしてしまう。
いつも以上に素直ではない自分に呆れながら、それでも彼の帰宅を大声でみなに伝えたいくらい嬉しかった。
程なくシャワーを浴びた彼が戻ってきた。
「先に仕事を済ませてください 僕もここで少し仕事をします」
そう言うと、ソファに腰掛けて、仕事の資料なのか黙って書類を広げた。
PCのディスプレイに写るジュンが、時々私の背中を見ているのを確認しては顔を緩めながら、
意味なくキーボードを叩く。
仕事の振りを始めて10分、後ろから書類をめくる音がしなくなった。
振り向くと、ソファにもたれ腕を組んだままの姿勢で目を閉じており、眠り込んでいるのか、
小さく穏やかな寝息が聞こえている。
ふぅ……と自嘲のため息が漏れた。
疲れて帰ってきたこの人を、こんな風に扱うなんてと、今更ながら自分の可愛げのなさに嫌気がさした。
眠りに邪魔そうなメガネをそっとはずし、ブランケットをとりに行きかけて、気を取り直し彼の横に腰掛けた。
大きな肩に手を回し、少しだけ自分の方に引寄せると、深い眠りなのか目覚める様子もなく、
私の腕にゆらりと体重がかかってきた。
腕に求め続けたぬくもりが伝わってきて、泣きたくなるほどの幸せが体を駆け抜けた。
どれくらいそうしていたのだろうか。
デスクの明かりだけがぼんやりと灯る部屋の中で、彼の体を抱きしめ続けて、
ただそれだけで私は充分に満ち足りていた。
「いつの間に寝たんだろう あなたの腕のぬくもりだったのか……暖かな日差しの中にいる夢を見ていました」
「そう どんな夢? 聞いてもいい?」
「目が覚めて あなたの顔を見たら忘れました」
それだけ言うと、もう一度 ”ただいま” と告げた顔が、ゆっくりと近づいてきたが
今の私には、それをかわす術はなく、目を閉じて静かに彼を受け止めた。
私の書いた小説が原作のドラマの主人公役の俳優だと、編集者を通して紹介されたのがジュンに会った最初だった。
原作も読みましたと、誰もが口にする社交辞令だと思っていたら、彼の感想にそうではないと知り、
ひどく驚いたのを覚えている。
普通は一回か多くても二回会えば良いところを、彼は何度も私の部屋に足を運んだ。
マネージャーが時間を気にするほど、主人公の思いを熱く語り、私がどんな気持ちで書いたのかを聞きたがり、
予定の時間をオーバーしたのも、一度や二度ではなかった。
彼が訪れる時間はいつも夜遅く、こんな時間にすみませんと、本当にすまなそうに言う。
そんな謙虚さが、俳優という職業を斜めに見ていた私の目の曇りを取り除いていった。
何を作っても残すことなく、実に美味しそうに食事をする、そんな彼を見るのが好きだ。
あの日もそうだった、遅く訪ねてきた彼に聞くと夕食はまだだという。
「食事をしながら話をしませんか 私の作ったものですが……」
こう切り出したのは私のほうだった。
遠慮するかと思っていた、ところが
「ありがとうございます ご馳走になります」
こんな素直な返事が返ってきた。
昨夜から煮込んだシチューと、ありあわせの野菜を合えたサラダをだした。
気持ちが良いくらいの速さで、彼はそれらを胃袋に収めていった。
その日を境に、食事をしながらの取材が恒例となり、いつしかマネージャー抜きの会食になっていった。
「いつも突然ですみません 明日の夜伺ってもよろしいですか?」
「えぇ じゃぁ明日はブイヤベース いいかしら?」
「うわぁ 楽しみです それじゃぁ僕はワインを持っていきます」
フルートグラスに注がれたワインを片手に、静かに話す彼の顔にほんのりと紅がさし、
その夜は心地良い酔いであることが窺えた。
グラスを口元に運び、ワインを流し込む仕草の綺麗なこと、男性でもこんな色気があるのかと、
つい凝視してしまった私の目を彼の目が捉え、視線をはずした私に、
「横顔が綺麗ですね」
などと、面映い言葉を照れることもなく投げかける彼を、意識するなと言うほうが難しい。
何かと私の部屋にやってくることが多くなり、いつしか同じベッドで眠るようになっていた。
彼の口から結婚の言葉が出るたびに、首を横に振る私に、彼は根気良く語りかけたものだ。
「俳優という仕事は 恋人でもない人に愛をささやき 愛してもいない人と肌を合わせ
親しい友人でも役の上ではライバルです だから……」
「だから?」
「だから 本当の僕を知っている人と一緒にいたい そう思ってはいけませんか」
「私が本当のジュンを知っていると言うの?」
「これだけ話しても まだ話足りないほどです それは 僕のことをもっと知ってほしいから……
あなたは僕の話を聞いてくれた 俳優ではなく 一人の人間として」
「そうね そうかも でも……私 あなたより いくつか年上よ ジュンにふさわしい人が他に」
「他にはいません 僕にはあなただけだ……僕の心はあなただけのものです」
言葉を仕事にしている私が、否定する言葉を見つけることができなかったあの夜、
私は返事をする代わりに彼を抱きしめた。
結婚を公表したいという彼の主張を聞き入れない事務所に、妥協案として、私と一緒に住むことを認めさせた。
その後の彼の行動は早かった。
私のマンションの隣りの部屋が空くと、彼はそこに越してきたのだ。
彼と私の部屋を仕切る壁の一部をくり抜き、そこに新しいドアを取り付けた。
出入りはジュンの部屋の玄関から、部屋の中は一人暮らしのまま、仕事の関係者の出入りも今までどおり。
仕事が終わると、私の部屋に通じるドアから彼は帰ってくる、私の元に……
新しいドアの存在を知るのは、ほんの一握りの人間だけだった。
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