恋、花びらに舞う 5. 炎陽 


朝の気配に目覚めた由梨絵は、隣に肌のぬくもりを感じ取り、ここが自分の部屋でないことを思い出した。

無防備な顔で眠る和真を起こさぬよう静かにベッドから抜け出し、夜の熱を残した空気を入れえるために窓を開けた。

細く開けた窓から梅雨特有の重く湿った風が流れ込んできた。

今日も雨だろうかと思ったとたん雨まじりの風が吹き込み、由梨絵はあわてて窓を閉めた。

「ゆう」 と呼ぶ声に振り向くと、和真のまぶしそうな目とぶつかった。



「帰ったかと思った」


「気持ちよさそうに寝てるから、黙って帰ろうかと思っていたところ」


「今日は大学は?」


「午後からよ」


「じゃぁ、ゆっくりできるな。このホテルの朝食、旨いよ」


「ホテルの朝食ランキング、ベストファイブに入っているそうね」



地元に住んでいるからホテルの朝食には縁がないのだと苦笑いした由梨絵を、和真は朝食に誘った。



「美味しい朝食は魅力的だけど、着替えたいから帰るわ」



昨日と同じ服だからと帰る理由を口にした由梨絵へ、和真は怪訝そうな顔を見せた。



「そのままでもいいじゃないか。俺は気にしない」


「私が気になるの。先にシャワーを使わせて」



俺も一緒に行くと言いながら起き上がった和真へ、今度は由梨絵が怪訝そうな顔を向けた。



「初めての相手とはシャワーしないことに決めてるの」


「じゃぁ何度目ならいいんだ」


「そうね……三回かな」


「三回もゆうを口説くのか……俺は明日イタリアに帰るんだが」


「そう、残念ね」 と返しながら、由梨絵はベッドを降りる和真の裸体から目をそらした。


「大学はもうすぐ夏休みだろう? 来いよ」


「来いって、イタリアに? あなた、仕事でしょう? 私もそうよ。学生は休みでも、私は……」


「学長の許可はもらった。向こうでレースチームのメンタルトレーナーとしての仕事があるじゃないか」


「えっ、メンバーが帰国したあと、日本国内で対応してほしいという話じゃなかったの? 

あなた、学長にそう言ったじゃない」


「俺は、大学の長期休みは、レースの開催地に来てもらうつもりだった。

大学の休みは長い、可能だろう?」



メンバーの帰国時にメンタルケアを頼みたい、大学の授業に差し支えのないよう配慮いたします、ぜひ後藤先生のお力をお借りしたいと学長に申し出たことなど忘れたような口ぶりだ。

和真は悠然とバスローブを羽織ると、納得のいかない顔の由梨絵をゆったりと抱きしめた。



「大学の休みは8月から9月だったな。その頃はスペインだ、向こうで待ってる」


「期待しないで……」


「待ってるよ」


「期待しないでって言ってるでしょう」



怒った声で言い返しながら浴室に向かう由梨絵は、背中から聞こえる和真の笑い声を忌々しく聞いていた。

リードしたつもりが、いつのまにかリードされる。

恋の駆け引きに手ごたえを感じながら、和真の責める手をかわしきれないもどかしさもあった。

シャワーを浴びながら、鏡の中の自分の姿に目をとめた。

鏡に映った肌のところどころに見える薄紅色の模様は、和真のしわざである。

腿の内側には濃い紅色が滲んでおり、和真の頭を抱えながら快楽の波に溺れたときが強烈に蘇り、水圧を強めたシャワーヘッドを鏡に向けた。

夏のスペインはさぞ熱いだろう……

昼夜の気温の差が激しく、急激な気温差に慣れない旅行者はたちまち体調を崩すのだと、ツアーコンダクターの友人の話を思い出した。

現地に適した服装を準備しなくては、サングラスは必要だろうか、さっそく友人に聞いてみよう。

シャワーのあと髪を乾かしながら、由梨絵の心は夏のスペインへ飛んでいた。




庭の紫陽花を眺めながらの朝食は申し分のない味だった。

昨日と同じ服は着たくない、だから着替えに帰るという由梨絵を、和真はホテルのショップへ誘った。

開店前の準備に追われるスタッフが、和真が連れてきた由梨絵へ嫌な顔ひとつせず対応してくれたことも、由梨絵の気持ちを楽にさせた。

「彼女に似合う服を選んで」 と、慣れた様子で話しかける和真を、似たようなことが何度もあるのだろうと疑ったが、それは由梨絵の思い過ごしだった。

和真が女性を伴ってきたのは初めてであるとの店長の言葉を、由梨絵は嬉しく聞きながら服を選んだ。

そして、プレゼントされた服を着て和真と向き合って朝食をとっている。

新しい服と言うだけで女は心が弾む、好ましいと思う男に買ってもらった服ならなおさらである。

こんなときは、男が発する尖った言葉もさらりとかわせてしまう。



「ゆうは……あの大学の先輩と親しかったのか」



昨夜は千葉について触れることはなかった和真が、フルーツを口に運びながら、由梨絵の顔を見ずにこんなことを聞いてきた。

やはり気になっていたのかと、由梨絵は和真が嫉妬心を見せたことを密かに喜んだ。



「千葉さん? そうね、卒論のテーマを決めたり、資料とかずいぶん親切にしてもらったのよ」


「親切? 男が下心なしで親切にするか」


「男性がみんなそうとは限らないでしょう。あなたは?」


「俺のことは関係ない。アイツと親しいのかと聞いている」


「卒業前に告白されました。でも、断った。これでいい?」



マンゴーを頬張った和真の口の端がわずかに緩んだ。



「そうか……千葉はいまでも、ゆうを好きなんだろう。そうでなきゃ、ラウンジに誘ったりしない」


「まさか、千葉さん、結婚しているのよ。奥様に失礼よ。私と懐かしい話でもしたかったんでしょう」


「アイツ、家庭持ちか。なるほどね……」



和真の妙に納得した顔を由梨絵は面白がって見た。

過酷なレースの世界に身を置く強靭な精神力を持つ男とは思えない、繊細な心が見えてくる。

和真の心の奥に潜む不安を刺激してはいけない、言葉ひとつで心のバランスが崩れることもあるのだから。

大事なレースを控えた男のために、由梨絵は男が喜ぶことを口にした。



「スペインのスケジュール、早目に教えてね。私にも都合があるから」


「来てくれるのか」


「来いって言ったのは和真でしょう」


「あっ、あぁ……あとで日程表を送る」



スペインは暑いぞ、日本の夏とは違う暑さがあるんだと、和真の口が軽快に動き始めた。

「和真」 と呼んだ効果は絶大だった。

もちろんスペイン行きを伝えたことも。

色とりどりの紫陽花を見ながら、由梨絵は和真と過ごす夏の景色を思い描いていた。



それから2ヶ月後、由梨絵の渡欧の予定が早まったのは、レースチームのマネージャーから事故の一報が入ったためである。

練習中に事故があり、チームメンバーに動揺が広がっているだけでなく朝比奈監督の疲労の色も濃い。

アドバイスが欲しいと言われて、できるだけ早くそちらに参りますと返事をした。

旅の準備を整えていた由梨絵の行動は早かった。

翌日には猛暑の日本を発ち、和真がいるスペインへ向かった。






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3 Comments

K,撫子

K,撫子  

ますみさん

拍手コメントをありがとうございます

あらためてこちらへお返事です。
(拍手コメント欄の入力が途中になってしまました)

クールなようで熱い由梨絵です。
彼の危機を聞いて、スペインへ飛んでいきました!
和真と過ごす夏……
次回もお付き合いください。

2019/06/15 (Sat) 21:30 | 編集 | 返信 |   
K,撫子

K,撫子  

To まあむさん

こんにちは

いつもありがとうございます。
リードしたい男と、そんな男を慎重に見極める女、ふたりの関係はまだ不安定です。

>軽妙なやりとりに人柄が感じられ読んでいて楽しくなりました。

ふたりの個性を感じてくださって嬉しいです。
事故の一報に和真の元へ飛んでいった由梨絵です。
恋する女の心は素直です^^

2019/06/14 (Fri) 16:57 | 編集 | 返信 |   

まあむ  

おはようございます。
更新ありがとうございます。
一歩踏み込んだ関係になっても駆け引きは相変わらず。
和真は気持ちを素直に表し、由梨絵は職業柄言葉を選び
発言していますが、軽妙なやりとりに人柄が感じられ
読んでいて楽しくなりました。
思いがけない展開となりましたが、2人の関係が
変わるきっかけとなりそうですね。

2019/06/14 (Fri) 07:21 | 編集 | 返信 |   

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