恋、花びらに舞う 7. 冬銀河 (後編)
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腹が減ったな……と漏らした和真に、由梨絵ははにかみながらうなずいた。
食事も忘れて互いを求めることに溺れ、ふと空腹を思い出した恥ずかしさがふたりの顔に滲んでいる。
デリバリーでも頼むかと言う和真へ、「こんな遅くに? 真夜中よ」 と返して由梨絵は立ち上がった。
長期の遠征で留守がちな和真の部屋には、おそらく何もないだろうと思って少しばかり食材を用意してきた。
「キッチン、借りてもいい?」
「あぁ、だが、なにもないぞ。あるのはビールくらいだろう」
何もないと言った和真の言葉通り、キッチンは閑散としていた。
食器はおろか調理道具ひとつ見当たらず、冷蔵庫の中には数本のビールが寒々しく横たわるのみ。
唯一、重厚なコーヒーメーカーがキッチンカウンターに鎮座していた。
外国の老舗メーカーのそれは、和真らしいこだわりが見える一品である。
それでは、コーヒー豆はあるのではないかと探すが、やはり見当たらない。
「コーヒーは? あなた、一日に何杯も飲むでしょう」
「遠征から帰ってきたら、そのつど豆を買ってる。今日は時間がなかった」
「じゃぁ、これから買い物に行きましょう」
「これから?」
ここに来る途中に24時間営業の店を見かけた、ほかにも買いたい物があるから出かけようと誘う由梨絵へ、和真は渋い顔をした。
「それより、車で出かけて食事をしよう。買い物は明日でもいいだろう」
「歩いていきましょうよ。歩いて10分もかからないと思うけど。食事ができるところ、近くにないの?」
「あるにはあるが、俺は車がいい」
歩いて外の空気を感じたい、あなたが住む街を一緒に歩きたいのだと言われて、和真は渋々承知した。
「すみません」 の声とともに女性が近づいてきたのは、ふたりがマンションを出てすぐだった。
とっさに由梨絵の腕をつかみ背中に引き寄せた和真は、睨みつけるように女性を見た。
マスクをした顔から見える目は、和真の威嚇する様子におびえている。
「そんな怖い顔しないで」 と和真をたしなめてから、由梨絵は女性に 「お困りですか」 と声をかけた。
「あの……近くに交番はありませんか」
「ごめんなさい、私もわかりません。ねぇ、和真、知ってる?」
「交番は、たしか駅前にあったはずだが」
由梨絵に名前を呼ばれたことでわずかに頬が緩んだ和真へ、
「駅前ですね、ありがとうございます」
ぎこちなく頭を下げて女性は、くるりと背を向けて歩いていった。
女性の背中から視線を和真に移した由梨絵は、和真を軽く睨んだ。
「道を聞いただけの女性を怖がらせないで」
「ゆうを狙ったのかと……なんでもない」
「私、狙われてるの? 気をつけなきゃ」
そう言いながらも、まるで緊張感のない由梨絵へ、実は留守宅のポストに何通もの怪しい手紙が入っていたのだと和真は険しい顔をした。
和真の帰りを待っている、自分の悪いところは直すから、和真も浮気はしないで欲しい、今度こそやり直しましょうと書かれた手紙には女の写真も同封されていた。
「マスクで顔を隠していたから、怪しいと思った」
「マスクだけで疑うのはどうかと思うけど」
「写真の女に心当たりはない。昔どこかで会ったかもしれないが、覚えていない。
手紙の文面から思い込みの激しいことはわかる。俺がゆうと一緒にいるところを見て、逆上するかもしれない。
どんなことを仕掛けてくるかわからないんだぞ、わかってるのか」
「さっきみたいに、和真が守ってくれるんでしょう?」
涼しい顔が和真を覗き込む。
和真の大きなため息がでた、その直後、物陰から飛び出してきた女が由梨絵に体当たりした。
いましがた交番はどこかと尋ねた女だった。
「わたしたち、何度も会ったじゃない。レースだってずっと応援してた。
朝比奈さんはスタンドの私を見つけて、いつも手を振ってくれたのに、浮気しないでって手紙でも頼んだのに、こんな女のどこがいいのよ」
わめき散らす女を捕まえるより、和真は路上に倒れた由梨絵へ駆け寄る方を選んだ。
「大丈夫か」 と心配する顔を押しのけた由梨絵は、威勢よく起き上がった。
「私に言いたいことがあるなら言いなさい。いくらでも聞いてあげる」
「どうして……どうして……そんな女がいいのよ」
由梨絵の勢いに怖気づいたのか、女の声は弱々しくなった。
「勘違いしないで。私が彼を選んだの」
由梨絵の落ち着いた声が夜の道に響く。
逃げ出そうとした女は、騒ぎを聞きつけて飛び出してきたマンションの警備員に捕らえられた。
例の手紙とともに女を警察に引き渡し、深夜営業の店のカンターで簡単な食事を済ませたふたりがマンションに戻ったのは、日付が変わった深夜だった。
ひどい目にあったのに、買い物ができなかったと残念がる由梨絵に和真は呆れた。
その一方で、和真に言い寄る女を前にしてもひるまない、由梨絵の威勢の良さは頼もしいとも感じていた。
どこか頼りなく甘える女が好みだと思っていたが、実はそうではなかったのかと気づき、あらためて由梨絵をじっと見つめた。
「なぁに?」
「やっぱり車で出かければよかった。そうしたら、こんな目にも合わなかったと思っただけだ」
「明日、買い物にいきましょう。あなたの大好きな車に乗って」
「たくさん買うつもりだろう」
「そう。まずは、料理できるように、キッチンの道具をそろえたいの。食器とカトラリーも。
それから、インテリアも。ラグとか、クッションもそろえて、そうだ、マットも必要ね」
次々に飛び出す買い物リストに、好きなだけ買ってくれと返事をして、和真はバルコニーへ出た。
行ってもいいの? と探る目の由梨絵を手招きで呼ぶと、嬉しそうにかけてくる。
並んで見上げた空に星はなかったが、ふたりで空を眺めるだけで十分だった。
「南半球で見る天の川は、それはきれいだ。ゆうもいつか来いよ」
「オーストラリア遠征は、いつも同じ時期?」
「いや、変わることもある」
「大学の休みと重なったら行けるのに……」
和真と南半球の空を眺める姿を想像しながら、由梨絵はその時の自分を思い浮かべた。
大学で教えながら、休みは和真の元へ飛んでいく。
和真が日本で過ごすあいだはずっと一緒にいる、そんな無理のない関係でいられたら、家族になっても……
そこまで考えて、由梨絵はハッとした。
和真との未来を難なく想像できることに驚き、そして、嬉しくなった。
相手に必要以上に踏み込まない、ドライな関係が保てる男性と上手くいくのだと思い込んでいた。
ときにはわがままを言って由梨絵を困らせ、そうかと思えば疲れを癒すように甘え、仕事に没頭しているときは由梨絵の存在も忘れてしまう男、それが和真だ。
こんな男にそばにいて欲しかったのだと気づき、隣の顔を見上げた。
「うん?」
「南半球の天の川、観たいわ。いつか連れて行ってね」
「二週間後、一緒に行くか」
「無理です」
由梨絵の即答に和真が大きな声で笑う。
来年は行こう、由梨絵がそう心に決めた夜だった。
豪州遠征のあとアメリカに渡った和真が帰国したのは、クリスマス前だった。
マンションの部屋は由梨絵の手で見違えるように整い、清々しいほど何もなかったキッチンには食器と調理道具がそろっていた。
暖かい部屋と温かい食事、そして、ぬくもりのあるベッドは、遠征続きで心身をすり減らした和真を癒していく。
「去年のクリスマスは何をしてたかって? ひとりで、ホテルの部屋で酒を飲んでた」
「本当にひとりで?」
「あぁ、去年のクリスマスシーズンはドイツにいた。あっちの奴らは家族を大事にする。
クリスマス休暇を何より楽しみにしてるからな」
「そう……わたしも、去年はひとりだったけど、今年はあなたと過ごせて良かった……ひとりは寂しいもの」
「じゃぁ、その前はどうなんだよ。ひとりじゃないだろう」
「そんなこと……」
由梨絵の背中の窪みに指を滑らせ、そのあとを唇で追いかけながら和真の追及は続く。
「ゆう、言えよ」
「いやよっ、聞いてどうするのよ」
体をひねり、振り向いた顔が、キッと和真を睨みつけた。
「そんな怖い顔をするな」
「あなたが嫌なことを聞くから」
綺麗な眉は、まだ不機嫌な曲線を描いている。
機嫌をとるか……
胸の奥でつぶやいた和真は、ベッドサイドの引き出しから箱を取り出した。
「クリスマスプレゼント? 期待してなかったから嬉しい」
「俺は期待されてなかったのか」
「ふふっ、すねないの。ありがとう。あけてもいい?」
ダイアモンドピアスが気に入ったのか、由梨絵の眉は笑顔とともになだらかな曲線を描いた。
「気に入ったか」
「そうね。あなたにしては上出来」
素直でない口がふっと微笑み、由梨絵の長い手が和真の首を引寄せた。
「ありがとう」
薄く開いた唇が、和真の唇を軽く吸い込みキスを続ける。
来年も、その次も、これからずっと一緒に過ごそう……
キスの合間、和真の口からこぼれた言葉に、由梨絵は一瞬驚き、それからゆっくりうなずいた。
約束通り三年続けてクリスマスを共に過ごし、大学が休みのたびに和真の元へ出かけるようになった由梨絵は、翌年の春はベルギー遠征に参加することになった。
そこで、思いがけない再会が待っていた。
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