恋、花びらに舞う 8. 花吹雪 (前編)
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桜が咲き誇る日本と比べてベルギーの春はまだ浅く、レース場から吹き込む冷気に首をすくめた由梨絵はハーフコートの襟を立てた。
見覚えのある男の背中に遭遇したのは、スタッフジャンパーを着こんだ人の波をぬって和真がいるブースへ向かう途中だった。
その背中に体を預けた頃と変わらぬ歩きは颯爽として、横顔は心持ちふっくらとなり柔らかい表情である。
別れを告げたあと、由梨絵が新しい恋を見つけたように、彼も幸せをつかんだのだろう。
左手の薬指になじんだ指輪が彼の今を物語っている。
由梨絵は芹沢圭吾の姿を、懐かしい心持ちで目で追った。
圭吾が向かった先が和真だったことに驚きながら、愛する男と愛した男が言葉を交わす様子を面白く眺めた。
男たちがなにを話しているのか由梨絵には聞こえないが、ふたりは以前からの知り合いであることが見て取れる。
和真が立ち去るのを見届けたのち、彼を苗字か名前で呼ぼうか迷った末に 「圭吾」 と呼んだ。
由梨絵の声に圭吾の足は止まったが、首をかしげて考える素振りがみえた。
再び足を踏み出した背中にもう一度 「圭吾」 と呼びかけた。
振り向き 「由梨絵……」 と言ったきり言葉に詰まった顔に、由梨絵はためらわず話しかけた。
「どうしてここにいるんだって、聞かないの?」
「あっ、あぁ……いや、あんまり驚きすぎて、こんなときは言葉がでないらしい」
異国で再会した元恋人に、よほど驚いたのだろう、圭吾は素直な気持ちを言葉にした。
「……元気そうだね」
「あなたもね。ちゃんと結婚したんだ」
なぜわかったのかと言いたそうな顔に薬指を示し、相手はあのときのメガネの女性かと由梨絵が尋ねると、圭吾は静かにうなずいた。
茶道を通じて知り合った女性が気になる、これは同情だろうかと悩む圭吾に見切りをつけ、別れを告げてから数年の月日が流れている。
「……よかった。せっかく別れてあげたのに、結婚したのは他の人だって言われたら、私の別れ損だもの」
「うん……」
あのときはすまなかった、などと圭吾に言われたら由梨絵も気まずい思いをしただろう。
圭吾の相手を気遣う優しさをあらためて感じながら、その気遣いが由梨絵にとって物足りなかったのだと今になり気がついた。
こんなとき、和真はどう答えるのか 「俺は別れるつもりはなかったのに、ゆうが言い出したんだろう」 とでも言うのではないか。
その前に、別れ話を切り出しても全力で阻止して、どこまでも追いかけてきそうである。
昔の恋人と向き合いながら、ふいに和真を思い出してしまう自分がおかしかった。
由梨絵の笑みを不思議そうに眺める圭吾へ、なぜ自分はここにいるのかを話して聞かせた。
大学に勤めながらレースチームのメンタルトレーナーを兼任していること、長期の休みは海外遠征に同行することなどを伝えると、圭吾も近況を語り始めた。
三年間の出向から戻り念願の開発チームに入った、これから海外遠征にも同行する機会もある、また会えるかもしれないねと、そんな話の最中に圭吾の携帯が鳴った。
圭吾の妻が、二人目を出産した報告だった。
「お子さん、生まれたのね。おめでとう。それにしても身重の奥さまを残して海外出張なんて、あんまりじゃないの」
「予定日はまだ先だったから」
二人目だから心配はないと思ったんだと語る圭吾の顔から、幸せな家庭が透けて見えた。
「……由梨絵、いまは……」
そろそろ行くね、また会いましょう、と口にした由梨絵へ、圭吾が控えめに問いかけた。
ずっと気になっていたのだろうその顔へ、由梨絵は快活に返事をした。
「結婚はまだよ。圭吾、心配してくれたんだ」
「うん……」
「ふふっ、私が一人なわけないでしょう、ちゃんといるわよ。それも、とびっきりの男よ」
そうか、と男にしては優しすぎる笑みを浮かべた圭吾に、由梨絵はなんの未練もなかった。
圭吾の背中を見送りながら、なんと大胆なことを口にしたのだろうと可笑しさがこみ上げてきた。
「前を向いて歩けよ」
目の前にあらわれた和真は、どこか不機嫌だった。
アイツと知り合いかと由梨絵を問いただし、芹沢圭吾が由梨絵が別れを告げた相手とわかると、「まだ忘れられないのか」 と怒ったように言い放った。
「バカにしないでよ。もう顔も忘れたわ」
由梨絵のひと言に和真の顔が崩れ、人目もはばからず由梨絵の腰を引き寄せて、耳元でささやく。
「開発チームの芹沢か。今夜のパーティーにも出るはずだ、見せつけてやるか」
「彼と張り合うつもり?」
「まさか。勝負はついている、思い知らせてやるんだよ。ゆう、ドレスアップしてこいよ」
「言われなくてもそのつもりです」
口ほど圭吾に対抗意識はなさそうで、ゆうのその顔、いいね、これからベッドに行くか? などと悪い冗談を言って由梨絵の反応を面白がっていたが、ふと真顔になった。
「よし、決めた」
「何を決めたの?」
「最終日に教えてやる」
「なによ、気になるじゃない」
それには応じず、和真の表情がまた変わった。
「少し気温が上がってきたな。テスト走行のデータが必要だな」
アスファルトの熱を手で感じ取った和真は、瞬く間に勝負師の顔になり、「じゃぁな」 と片手を上げ、何ごともなかったように由梨絵から離れていった。
和真が何を決意したのかわからないが、最終日、すなわち決勝のあとまで口にする気はなさそうである。
教えてやるというのだから、由梨絵に無関係ではないのだろう。
何を聞いても、和真についていこうと心は決まっている。
風よけに立てたコートの襟を戻して背伸びをした由梨絵は、清々しい気持ちで足を踏み出した。
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