雪の花守 -春の章- 5


 陽菜子がブリュッセルに来て一週間が過ぎた。

里桜の出産予定日までしばらくあるが、おなかの子どもは順調に大きくなっており、心配はないと担当医に言われている。

こちらは日本のように厳しい健康管理もなく、すべてが緩やかであるらしい。


「検診でも詳しい説明はないの。でもね、問題ないよって、先生が笑って言ってくださるから安心よ。

食べたいものを食べなさいって、だから好きなものを食べてる。つわりがはじまった頃、ブラッドオレンジばかり食べていたら、祐斗さんにあきれられたけど。

それにね、体重が増えても注意されることもないの。日本のお友達に話したら驚かれちゃった」


日本で妊娠期間を過ごしていたら、あふれる情報に惑わされ、出産まで気を遣い続け、神経をすり減らしていたかもしれないと聞き、陽菜子もそれには同感だった。

心配性ではないが、真面目で、突き詰めて考えるたちの娘である。

日本にいたら、医師の細かな指導に真面目に従い、さらに自分でも情報を集めて、気の抜けない日常になっていたに違いない。

おおらかに妊娠後期を過ごす娘を見ながら、無理に日本に連れて帰らなくてよかったと思った。

里桜の妊娠を知った紀明はベルギーでの出産に難色を示し、帰国を促す説得を何度も試みたが、里桜の固い決心にとうとう折れた。

電話で、いまだに心配を口にする紀明の方が不安そうで、異国で楽しそうに過ごす里桜に励まされるありさまである。

紀明がそこまで心配するのは、里桜が生まれるまでの陽菜子を見てきたからでもある。

陽菜子には、妊娠後期をどのように過ごしたのか、当時の記憶がほとんどない。

覚えているのは、養父母と夫を失ったショックで心身が衰弱し、起きているのも億劫だったことと、胎動による腹部の痛みである。

出産前、臥せっていることの多かった陽菜子は、眠りが浅く、うつらうつらしているところを、お腹の子に何度も起こされた。

腹の形が変わるほど足で蹴られて、そのたびに苦痛で顔をゆがめた。

由希也の子がここにいるのだと訴えるような痛みに、命のつながりを意識せざるを得なかった。

生きる意味を失いかけていた当時の陽菜子は、食事にも積極的ではなかった。

周りから、お腹の子どものために無理にでも食べなさいと勧められて無理をすると、そのあと必ず体調を崩した。

そのため、食べたいものだけを食べて命をつないでいたといってもよい。

乏しい食生活を過ごしたため体はやせ細り、体力もなくなっていたが、子どもは順調に成長し、小柄ながら元気に生まれた。

母親があのような状態でも子どもは育ち、生まれようとするのだ。

母親の心身が穏やかであれば、子どもはもっと健全であるだろう。

父親代わりを務めてきた紀明が、里桜を自分の手の届く範囲の整った環境で出産させたいとの思いが強かったことは陽菜子にもわかっている。

けれど、こちらで心穏やかに過ごす里桜を目にして、これで良かったのだと安心するのだった。


適度な運動は良いと医師からの勧めもあり、腹部がせり出し、歩きも難儀そうな里桜を伴っての散歩が日課になっていた。

とはいえ、雨の多いブリュッセルである、散歩のできない日もある。

そんなときは決まって、祐斗の上司の妻で隣人でもある山崎加識からお茶の誘いがあった。

もてなし上手な加織とのおしゃべりとテーブルセッティングも楽しみのひとつで、里桜の出産を待ちわびながら充実した時を過ごしていた。

その日、休日の祐斗が陽菜子を案内したのは郊外の美術館だった。

結婚前に二人で訪れた美術館の庭園で、『煎茶道 白羽流』 若宗匠の赤羽に会ったことなどを思い出しながら語っていた祐斗が、『白羽流』 は今年の秋にこちらで海外茶会が……と言ったあと言葉が止まった。

祐斗の目は美術館の道向こうのカフェを見つめたままで、視線の先をたどった陽菜子は、そこに見覚えのある顔を見た。

聞こえてくる灰田の声は、首を振るだけで平然としている相手に苛立っている。

飛行機で隣り合った方々であると言おうとして口を開いた陽菜子より、祐斗が先だった。


「トラブルのようですね」


日本人観光客かな、ちょっと行ってきますと言い残して祐斗は走っていった。


「きっと、トイレトラブルね。こちらはトイレが少なくて、それもほとんど有料だから。日本人にはお金を払って入る習慣がないでしょう、困っている人をよく見かけるのよ」


公衆トイレも有料ならカフェのトイレもチップがいるのだと陽菜子に説明する里桜は、すっかりこちらの暮らしになじんでいる。


「カフェでお食事をしても有料なの?」


「無料のところもあるけれど、チップを払って使う方が多いかな。前にもこんなことがあったのよ」


カフェのレシートを店員に見せて、食事をしたから使えるだろうと言い張る日本人観光客がいて、近くの席にいた祐斗が仲裁に入った。

祐斗さん、そう言う人を見ると放っておけないみたい、見て見ぬふりをする人も多いのにねと、里桜は肩をすくめながらも走っていった祐斗の背中を頼もしそうに見つめた。

灰田のそばには周防もいてなだめているが、灰田に周防の言葉を聞く様子はなく口論が続いている。

もめるふたりのあいだに入った祐斗がとりなしたのか、ほどなく灰田は苦い顔をしながら店の奥へ入っていった。

申し訳なさそうに頭を下げていた周防が陽菜子に気がついたのは、祐斗に連れがいるとわかったためである。

驚く顔へ、陽菜子はゆっくり頭を下げた。


祐斗に伴われてきた周防は陽菜子との偶然の再会を喜んでいるが、灰田は気まずそうである。

互いにあらためて自己紹介を終えたあと 「お礼と、借りた金をお返ししたい」 と言ってきかない灰田に連れられてほかのカフェに落ち着いた。

トイレ使用のためにチップを渡す渡さないで揉めていたところに駆けつけた祐斗は、


「どうしても今利用したいのであれば、チップを払ってください。我慢できそうなら僕の家に案内します。ここから30分ほどかかりますが」


急を要するであろう灰田に、あえてゆっくり伝えた。

灰田から待てないと返事があり、小銭を持ち合わせていない彼らに代わって手持ちの硬貨をトイレの番人に渡したのだった。


「この国の人は頑固ですね。どうでも貸そうとしない。カフェで食事をして、相応の代金を払ったあとなのに、トイレは有料だっていうんですよ。

チップなんてものは、こちらの善意ですよ。払いたくなければ払う必要のないものなのに」


東欧ではトイレ番がいても払わずに使用できたのにと、灰田は納得のいかない顔である。


「ただ立ってるだけで、観光客から金を巻き上げる奴らに払う必要はありません」 


「ただ立ってるだけではありません。彼らは、トイレの清掃をして、その代金を客からチップで得ています。正当な対価だと思いますが」


祐斗の静かな反論に灰田はなにか言いかけたが、先ほど助けられたこともあり口を閉じた。


「なるほど……清掃の対価ですか。われわれも、これからは、清掃の代金を気持ちよく払おうじゃないか」


義父である周防の言葉に、灰田はしばしの沈黙のあと小さくうなずいた。

無言になった灰田に代わって、周防の口は軽快だった。

こちらへ仕事で来たこと、ホテル住まいは快適であるが味気ない、散歩に出かけようとすると雨に阻まれる、雨男のつもりはなかったのですがと、滑らかな語り口で話が続く。

灰田は娘婿で、いずれ灰田に事業を引き継ぐこと、のちに娘夫婦の子が継いでくれたらいいのだがと語った周防は、じっと聞き入っている里桜をまぶしそうに見た。


「お子さん、もうすぐですね」


「はい、いつ産まれても良いそうです」


「それは楽しみだ」


「早く生まれて欲しいと思いますけれど、生まれたら大変でしょうね」


不安を口にした里桜へ、陽菜子はゆったりと応じた。


「そうよ。新米ママは、赤ちゃんのお世話で寝る暇もないの。ゆっくりできるのは今だけよ」


「お母さんも手伝ってくれるのでしょう?」


「えぇ、そのつもりでここまで来たんですから。でもね、産む手伝いはできませんよ。出産は体力勝負、頑張りなさい」


里桜と陽菜子の会話に、周防がかすかに顔の表情を変えた。

灰田も微妙な顔をしたが口を閉じたままである。

気になることでもありましたかと聞こうとして、陽菜子は言葉を飲み込んだ。

おそらく、楽しい話ではないだろうと思ったためである。

周防か灰田の妻は育児に苦労したのではないか、または、出産前にトラブルに見舞われたのかもしれない。

経験談を聞いておくのも悪くはないが、出産を控えた娘に、できるなら剣呑な話は聞かせたくはない。

陽菜子の気持ちを悟ったように、周防が明るい声で疑問を口にした。


「息子さんは、妹さんのご家族と一緒にお住まいですか?」


周防の問いかけに、祐斗と里桜は怪訝な顔をして、陽菜子は首を傾けた。


「荒木さんの息子さんは、世界中を旅行中で、こちらでアルバイトをされていると聞いたので……あれ、違いましたか」


「僕は旅行中ではなく、日本企業の研究所に勤務しています。妹は結婚して日本にいますが……あっ、妹って」


そこまで言うと、祐斗と里桜は顔を見合わせた。


「彼女は僕の妻です」


「えっ、でも、荒木さんは息子さんが迎えに来るからと、空港で」


そこまで言われて、陽菜子は自分の言葉が周防に誤解を与えたことに気がついた。


「ごめんなさい。祐斗さんは私の息子には違いありませんけれど……」


「里桜と結婚して、母の養子になり、僕は荒木姓になりました。

お母さんに息子と言ってもらえるのは嬉しいですね」


あらためて祐斗と里桜、陽菜子の関係がつげられて、周防も灰田も納得のいった顔である。


「いやぁ、私も思い込みで言ってしまった。そうですね、祐斗君は確かに息子さんだ」


祐斗君は荒木さんの姓になったんですねと、なるほど、そうでしたかと周防は何度も繰り返した。


「荒木さんのご主人は、一人娘さんの将来を考えて、祐斗さんを養子にされたんですね」


それまで黙っていた灰田の突然の発言に祐斗は驚き、返事に困った様子である。

周防は顔をしかめながら 「失礼じゃないか」 と婿をたしなめたが、灰田は意に介さない。


「だってそうじゃないですか。財産は、譲り受ける人数が多い方がいいに決まってます。税金だってバカにならない。贈与税対策には」


「黙りなさい」


暴走する灰田の口を、周防は厳しい口調でいさめた。


「婿が失礼なことを言いました」


「いいえ……」


気まずい雰囲気がただようなか、陽菜子が静かに言葉をつづけた。


「夫は早くに他界いたしました。事業は信頼のおける方に任せておりますが、わずかながら引き継ぐものがあります。

里桜は一人娘で、私は体があまり丈夫な方ではありません。祐斗さんが里桜と私のために、結婚後は荒木の名前を名乗ってくださると聞いて、心から安心いたしました」


「そうでしたか……君も謝りなさい」


すみませんでしたと頭を下げた灰田の顔は、言われたから仕方なく謝ったのではなく、本当にすまないと感じているようだ。

周防の大きなため息が漏れて、気まずそうに首の後ろに手をまわした灰田の頭を、周防の手が遠慮なく叩いた。

「痛いじゃないですか」 と返した顔へ 「痛いに決まってる」 と言い返す父親と婿の関係は、見た目ほど悪くなさそうだと陽菜子は思った。

灰田は思ったことを胸に留めておけないのだろう。

そんな婿を、周防は歯がゆく思っているのかもしれない。

コーヒーのおかわりを頼みましょうかと祐斗が言い出し、新しいコーヒーが運ばれてきた頃になると、義父と婿のぎくしゃくした雰囲気は消えていた。



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6 Comments

K,撫子

K,撫子  

To ますみさん

こんばんは

いろいろ難がありそうな灰田、周防の娘は彼のどこに惹かれたのか不思議ですね。
それとも、見えない良さがあるのか……
私も灰田のような男性は苦手かも(笑)

今後彼らと接点があるのか、里桜の出産は?
引き続きお付き合いください。


2020/01/23 (Thu) 22:48 | 編集 | 返信 |   

ますみ  

こんにちは

性格が極楽トンボな私は、たいがい助けてもらう立場(←ヲイ
なので、灰田さんはちょっと苦手なタイプです。。

灰田さん、お金の計算は凄そうだけど、なんだか残念な気が・・・
義父の周防さん、気苦労が絶えない日常にみえます。
ともあれ、陽菜子さんへの誤解が溶けてよかったー! と思う私です。
そして、里桜さんの元に元気なお子さんが舞い降りてきますように!

2020/01/23 (Thu) 12:52 | 編集 | 返信 |   
K,撫子

K,撫子  

To fasutonneさん

こんにちは

見る角度、受け取り方で、人が違って見えますね。
意外に仲良くなるかも? と予想してくださり、ありがとうございます。
(先を想像していただくのは嬉しいです!)
ひきつづきお付き合いください。

2020/01/22 (Wed) 17:20 | 編集 | 返信 |   
K,撫子

K,撫子  

To まあむさん

こんにちは

祐斗と灰田、ふたりの「婿」の個性が際立ちました。
周防には、灰田が情けなく見えたかもしれません。
思わぬ再会がもたらすものは……
次も同じ場面から始まります、さらに深く見えてくるはず。
ひきつづきお付き合いください。

2020/01/22 (Wed) 17:15 | 編集 | 返信 |   

fasutonne  

こんばんは、

灰田氏、思っていたより悪い人ではなさそうですね。意外と後々仲良くなって助けてくれる人になるのでしょうか?

2020/01/21 (Tue) 19:06 | 編集 | 返信 |   

まあむ  

こんばんは
再会の仕方が、国の習慣に関したトラブルであり
祐斗夫婦がすっかり生活に馴染んでいることや
灰田や祐斗の性格の違いもよくわかりますね。
偶然知り合った陽菜子たちに今回は佑斗夫婦も加わり、
こちらの関係は明らかとなりましたが、
周防たちについては疑問が残ります。
今後もさらなる関わりがあるのでしょうか?


2020/01/21 (Tue) 18:01 | 編集 | 返信 |   

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