【雪の花守】 -夏の章- 6


頬に触れる風の冷たさも和らいできた3月初旬、陽菜子は姉の五十嵐小枝子と成田国際空港のラウンジにいた。

里桜の家族に会いにベルギーに出かける 『円行寺』 の両親と、付き添いとして同行する白井夫妻を出発ゲートまで見送ったばかりである。

無事に飛行機が飛び立つまで空港にとどまるつもりで、ふたりはティーラウンジの奥の席に座った。


「留守中の寺が心配とか、実は飛行機が苦手なんて言って間際まで行き渋っていたのに、ご機嫌な顔で私たちに手を振って、お父さんが一番はしゃいでたじゃない」


朝食をしっかり食べてきたから紅茶だけでいいと言っていた小枝子は、ショーケースに並んだ春色のケーキに目を奪われてケーキセットを頼み、桜色のクリームをほおばりながら、しゃべる口で父親をこき下ろした。


「お父さん、本当は行きたかったのよ。白井さんと悦子さんがご一緒してくださって良かったわ」


「そうね……ねえ、あなた、白井さんがいないあいだ、大丈夫?」


あっというまに春色のケーキを食べおえた口が陽菜子を心配した。

荒木家の秘書兼運転手である白井は、旅行と前後の休みも含めて一ヵ月近くの休暇を取っている。

白井の留守中は、代理の者が運転手を務めることになっているが、白井のようには行き届かないのではないかと言いたいらしい。


「電車もバスも一人で乗れますから、ご心配なく」


白井に頼ってばかりでは何もできないと思い、スマートフォンの地図アプリや乗り換え検索も使えるようになったのだと、陽菜子は胸を張ったが、少し前まで一人で出かけたことがなかったのだから小枝子が心配するのも無理はない。


「アプリを使えるようになるなんて、すごいじゃない。でも、それに頼り過ぎるのもどうかと思うけど」


電車は故障や事故などトラブルで遅延がよく発生する。

そんなときはアプリの情報もあてにならない、遅延で乗り換えもままならない、タクシーもつかまらない、いつでも駆けつけてくれる白井さんは日本にいないのよと、小枝子は考えられる心配を並べた。


「外出先で困ったことがあったらいつでも連絡してね」


「ありがとう。外出は、お買い物かお茶のお稽古くらいだから、大丈夫だと思うけれど」


本当は織物を習うために 『周防織物』 へ出かける予定があるが、小枝子には黙っていた。

月に一度の講習会には、一柳千春と待ち合わせて、電車で一緒に行こうと約束ができている。

最寄り駅から千春と待ち合わせの駅まで行き、そこから電車一本で 『周防織物』 のある街へ着く。

自宅から駅までは車に乗るほどの距離でもないので、白井の代わりの運転手にも予定は伝えていない。


「そろそろ出発時刻ね。送迎デッキに行ってみましょうか」


せっかちな小枝子はそう言いながら、もうバッグを持って立ち上がっている。

小枝子についていった送迎デッキの人はまばらで、デッキから見える滑走路には世界各国の飛行機が飛び立つときを待っている。

これまでの陽菜子だったら、残される寂しさから両親や白井たちと一緒に里桜の元へ行きたいと思っただろう。

ところが、いまは、ひとりで過ごす一ヵ月間を楽しみにしている。

陽菜子に不自由をさせないよう立ち回る白井を窮屈に思ったことはないが、ひとりで気ままに出かけられる日を密かに心待ちにしていた。

亡くなった養父母は陽菜子を大事にしてくれたが、過保護なほど行動は制限されて、10代の陽菜子に自由はなかった。

由希也と知り合い煎茶道をはじめてから、「お茶会に出かけます」 といえば両親の厳しい目も緩み、たびたび茶会を理由にして由希也に会いに出かけたころの陽菜子は、今にして思えばなんと大胆だったことか。

日帰りでも出かけられる茶会を 「水屋の手伝いを頼まれたので、みなさんとお泊りします」 と両親に伝えて、茶会の前日から家を空けたことも一度や二度ではない。

茶会の片付けで遅くなるからという理由から、二日続けて外泊したこともあった。

それもこれも、由希也と過ごすための偽りの口実である。


「ひなは見かけによらず無茶をするね」


茶会がすんで、若宗匠としての付き合いを終えたあと、由希也が陽菜子のホテルの部屋へ忍んでやって来るのはいつも深夜だった。

由希也の訪れをじっと待っていた陽菜子を抱きしめて、嬉しそうな顔でそんなことを言う。

周りには控え目な性格と見られているが、陽菜子には、こうと思ったら突き進む芯の強さがある。

由希也が婚約者になり、やがて別れが訪れて、家族の不幸が重なってから積極的に行動することはなくなり、陽菜子の本来の性格は影をひそめていた。

両親に偽りを言って出かけるときの、高揚感と少しの罪悪感が入り混じった感情に似たものが、いま陽菜子の胸に芽生えていた。


「ほら、あそこ、あの飛行機よ」


小枝子と一緒に飛行機に向かって手を振りながら、明日から始まる自由を思って胸が弾んだ。



今月から 『煎茶道 中級講座』 に復帰した巴と交代するように、周防の欠席が続いていた。

稽古は、第一、第二、第三水曜日の月三回と決まっている。

会社で責任ある立場の周防の出席が難しいことはわかるが、初級講座はほぼ休みなく出席だったことを考えると、今回は休みが多い。


「海外出張が増えたので、欠席が続きそうです。それでお願いなんですけど、父にも動画を送っていただけますか」


巴に見つめられて、杏璃と立花は嬉しそうにうなずいた。

出産後しばらく欠席した巴のためにはじめた稽古動画の撮影は、いまもつづいており、欠席者には動画が送信されている。

この取り組みは 『高風流』 本部でも評価されて、来季からすべての手前が動画におさめられる計画がある。


「立花さんと杏璃さんが、若宗匠に直接撮影許可をいただいたことから、若宗匠が興味を持たれて、本部で取り上げられて本決まりになったそうですよ」


80歳をいくつか超えた佐伯師範は、若い人の発想と行動力は素晴らしいですねと、立花と杏璃をたたえた。

青年部が中心になって取り組む計画で、動画をはじめた立花と杏璃にも声がかかった。


「青年部には男性が多いんですよ。茶道ができる男性って礼儀正しくて、素敵じゃないですか」


男性会員と話ができる機会があるので楽しみですと、片付けをしながら千草に話す声が陽菜子の耳にも入ってきた。


「彼女たち、青年部で婚活するつもりね」


千春が陽菜子にささやき、その顔は煎茶道で婚活をしようとする若いふたりを面白がっている。


「私たちは機織りを頑張りましょう」


楽しみねと千春に言われて、陽菜子はうなずいた。

周防映子に織物を習う日が近づいていた。



その日、陽菜子は朝早くからキッチンに立っていた。

朝食を作りながらの弁当作りは、娘が学校に通っていたころ以来である。

月に一度の織物講習会は、昼食をはさんで行われる予定で、移動時間を含めて一日がかりとなる。

工房の近くには食事のできるところはないらしく 「昼食持参でお越しください」 と映子に言われたときから、陽菜子はどんな弁当がいいだろうかと考えていた。

おかず作りや、彩りよく弁当をつめる作業は、久しぶりだったこともあり思いのほか手間取った。

急いで朝食を済ませて身支度を整えて、戸締りをして家を出る。

駅までの道を急ぎ足で進みながら、忘れ物はないかと頭の中で持ち物を確認する最中、家政婦の梨田美子に今日の予定を伝え忘れていたことを思い出した。

電車のシートに腰を下ろしたあとスマートフォンを取り出し、以前よりずいぶん早く動くようになった指で画面を操作して、今日は一日外出予定、帰宅は夕方になることを美子にメールで伝えた。

待ち合わせの駅には、千春が先に待っていた。



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4 Comments

K,撫子

K,撫子  

To fasutonneさん

こんにちは

無事に千春との待ち合わせ場所までたどり着けました。
迷う陽菜子を期待してくださったのですね(笑)
しかし、今後は……当たらずとも遠からず……

2021/09/16 (Thu) 17:06 | 編集 | 返信 |   
K,撫子

K,撫子  

To まあむさん

こんにちは

誰かに守られてきた陽菜子が、少しずつ自分の世界を築こうとしています。
そして、白井のいない一ヵ月間がはじまりました。
若いころなら失敗も恐れずにできるけれど、年を重ねるとそれも難しくなります。
由希也に出会ったころの陽菜子を、取り戻すことができるでしょうか。

物語の続きは今日更新です。

2021/09/16 (Thu) 17:03 | 編集 | 返信 |   

fasutonne  

こんばんは、

無事に待ち合わせ場所に着けたのですね、迷うかと密かに楽しみにしておりました。(笑)

2021/09/15 (Wed) 20:44 | 編集 | 返信 |   

まあむ  

こんばんは
更新ありがとうございます。
少しずつできることが増え、充実した生活を過ごしているといっても、
これまでの陽菜子を思えば心配するのも当然ですよね。
でも、若い頃は正反対だったのですから、
期間限定の自由を待ち遠しくもあったでしょうし、
そう思えるようになったことは喜ぶべきかな。
はたして、彼女が望むような自由を満喫できるのか興味津々です。

2021/09/15 (Wed) 17:52 | 編集 | 返信 |   

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