冬の柔らかな日が差し込む部屋に、紙の上をすべる鉛筆の音が響く。
部屋の中央に置かれたテーブルの上には空き箱が二つ、無造作に置かれている。
これが今日の 「課題」 か。
先々週はボール、先週は箱がひとつ、今週は箱が二つ。
講師はどんな基準で課題を決めのか、美術の才能のない私には見当もつかないが、早苗大叔母は今週の課題は何かと考えるだけでワクワクするそうだ。
ときどき腕を伸ばして箱のサイズを確認する大叔母の目は真剣で、声を掛けるのがためらわれた。
「箱の輪郭ではなく面の向きを見てください。影になる面、光が当たる面、同じではありません。よく見て」
デッサン用紙の線を潔く消したあと、鉛筆を持つ手が勢いよく動き始める。
大叔母が描く線に迷いがなくなると、若い講師は満足そうにうなずいた。
絵画講師を自宅に招いてレッスンがはじまったのは先月、念願かなった大叔母は夢中で取り組んでいる。
「油絵を描いてみたいのだけれど……」
そう言いだしたのは、年末年始に家族そろって出かけた 『吉祥 別館』 の、新年の食事の席だった。
結姫の同級生が絵を習っているという話題から、学生の頃は美術の時間が一番楽しみだったと、普段あまり自分のことは口にしない早苗大叔母が昔語りをはじめた。
女学生だった昔、クラスで一番上手いと美術教師に褒められた絵を持ち帰り、両親に得意気に見せると、母親は褒めてくれたが父親は、
「女の子に絵の特技は必要ない」
と冷たく言い、その後、大叔母が両親の前で絵の話をすることはなかった。
「女性はなにかと我慢を強いられ、好きなものを好きと言えなかった時代ですから」
それでもいつかはと思っていたのに、結婚後も絵を描きたいと言い出せずこの歳になりましたと寂しく微笑んだ。
大叔母の夫の礼次郎大叔父は生前、近衛の曾祖父とともに若手芸術家の支援に熱心だった人である。
大叔母の思いを知ったなら、習うように勧めたはずだ。
「我が家にも若い画家さんがたくさんいらっしゃって、当たり前ですけれど、みなさんお上手な方ばかりでしょう。
美術の先生に褒められたくらいで喜んでいた自分が、とても恥ずかしくなりましたの」
若い画家たちに絵のモデルを頼まれることもあり、描かれることはあっても描く側になることはなかった。
「これから習ってみてはいかがでしょう」
知り合いの画家に聞いてみましょうかと言い出したのは、妻の珠貴だった。
絵画教室に通うより個人レッスンが良いだろう、画材の相談もしてみますねと、珠貴はもうその気になっている。
「珠貴さん、ありがとう。でも、この歳ですから覚えも悪くて、講師の先生に申し訳ないわ……」
「そんなことありません。思いたったが吉日というじゃありませんか」
年齢を理由に夢をあきらめようとする大叔母へ、私は思わず声をあげた。
「そうね、宗さんの言うとおりね。珠貴さん、お願いできますか」
絵といってもいろいろある、鉛筆画、パステル画、水彩、油絵、大叔母さまのご希望はと尋ねる珠貴へ、「油絵を描いてみたい」 と遠慮がちに伝える大叔母のはにかんだ顔は、女学生にもどったようだった。
伊豆に住む珠貴の祖母の友人に、風景画を得意とする女流画家がいる。
珠貴も交流があり、新年の挨拶に伊豆の祖母に会いにいったあと、花伊都(はない みやこ) 画伯を尋ねた。
花伊さんは伊豆のアトリエにこもることが多く、伊豆に出向いてくださるならお教えしましょうと言ってくれたが、高齢の大叔母には負担である。
そこで、花伊さんが大学で教えていた頃の教え子を紹介された。
千寿マリオが初めてやって来た日、その若さと容姿に我が家の誰もが驚いた。
美大を卒業と同時にパリに留学、帰国後まもなく出品した展覧会で入賞と、それだけでも華々しいが、もうすぐ30歳になりますと語る顔は鼻筋がすっきりととおり、目は涼やかで細身で長身、画家というよりモデルが似合う体つきである。
花伊さんの紹介であるから身元は間違いない、受賞歴から実力もあるだろうが、あまりにも若く、教えるだけの技量があるのか一抹の不安があった。
そんな彼を真っ先に気に入ったのは、ほかならぬ大叔母で、「マリオ先生、よろしくお願いします」 の大叔母の一声で、彼に絵の指導を受けることが決まった。
マリオは本名で、漢字で 「毬緒」 と書く。
彼の実家が氏子の神社の宮司が名付け親ときいて、しっかりした家庭に育ったのだろうと勝手な想像をしたが、大叔母も私と似たような感想を持ったらしい。
やがて90歳に手が届く大叔母と、30歳になろうとするマリオ先生のレッスンは、いまのところ順調である。
それにしても熱心なレッスンの、どのタイミングで声を掛けようか……
私の迷い顔に気がついたのは、早苗大叔母のうしろから立体面の描き方を指導する千寿だった。
千寿の目になにか用かと問われ、私はようやく口を開いた。
「服部さんがいらっしゃいました」
「まあ、服部さんが? マリオ先生、よろしいかしら」
「ええ、どうぞ」
服部さんと聞いて顔をほころばせた早苗大叔母と違って、千寿は歓迎した顔ではない。
それはそうだろう、服部さんは毎週のようにやってきてここに居座るのだから、レッスンの邪魔をしに来るようなものだ。
大叔母と服部さんは古い付き合いで、互いの配偶者を亡くした今、良き話し相手でもある。
「早苗さん、絵を習うんだって? 見学させてほしい」
しぶしぶ見学を許可した千寿は、毎週のようにやってくる服部さんに良い顔をしない。
指導を見られるのは良い気分ではない。
取り次ぎをする私も居心地が悪い。
ところが、今日は少し様子が違っていた。
「こんにちは」 と元気よく入ってきた服部正成さんは、
「千寿先生、私にも教えてください」
唐突に弟子入りを申し出た。
『服部製作所』 会長の職にあるが、会社は娘婿と経営陣がしっかり取り仕切り、服部さん本人はほぼ隠居である。
多趣味な人で、なにをやらせてもセミプロ級の腕前、知識も教養もある。
ある出会いから服部さんと私で甘味同好会を結成、甘味をこよなく愛する男性のみが会員となれる 『水一倶楽部』 の会長も務めている。
服部さんはそこで 「殿」 と呼ばれており、その癖が口から出た。
「えっ、殿が? あっ、失礼……服部さんが絵を? また、どうして」
急な申し出に顔をこわばらせた千寿は、服部さんから先日あなたの絵を拝見して感動しましたと言われ、しかめっ面を引っ込め微笑を浮かべた。
自分の絵を褒められて悪い気はしないということか。
「できれば、こちらで早苗さんと一緒にお願いします」
大叔母が承知したためで、服部さんのレッスン参加の話はまとまった。
「根岸さん、服部さんの席を作ってください」
さきごろ大叔母の世話係になったばかりの彼女へ、千寿はイーゼルはここに、椅子はここ、鉛筆はこれをとてきぱきと指示するが、言われた方はもたつき思うように準備が整わない。
「さらささん、あわてなくていいのよ。急がずゆっくりね」
「はい」
「すみません」 と言わないところが彼女の良いところですよと大叔母は言うが、我が家で働き始めて二ヶ月、そろそろ慣れて欲しいのにとにかく手際が悪い。
千寿ほどではないが彼女も長身で、長い手足が邪魔をするのか、椅子とイーゼルを並べるのに手間どっている。
「椅子はもう少しうしろに」
「はい」
「鉛筆は、それじゃない、これを」
「はい」
返事だけは合格点の根岸さらさに、私はそっとため息をついた。
- 関連記事
-