【ボレロ 第三部 鈍色のキャンバス】 -夢の色- 1-4
- CATEGORY: 鈍色(鈍色)のキャンバス
「雨になりそうね……いってらっしゃい」
日曜日の朝、曇天の空を気にしながらゴルフに出かける私を、ベッドの中から見送り微笑む珠貴の顔から感情は読み取れない。
昨夜も今朝も、珠貴が七海についてふれることはなかった。
又従姉妹の私への思わせぶりな視線と絡めた腕を目にして、良い気分ではなかっただろう。
七海へ特別な感情はないと言いたいのに、うまく言葉が見つからない。
まだ眠そうな目の珠貴になにも伝えられず、もどかしい思いを抱えながら部屋を出た。
玄関横の花壇の前で、スケッチブックを手にした早苗大叔母を見かけた。
小さな椅子に腰かけて花を見つめる背中に 「おはようございます」 と声を掛けた。
私の足音に気がついて振り向いた大叔母は、早朝にもかかわらず髪も身なりも整っている。
いつ会ってもきちんとしており、この人の乱れた姿を見たことはない。
「宗さん、お早いこと。ゴルフかしら」
こちらはポロシャツにスラックス、いかにもといった格好である。
「大叔母さまは早起きですね。こんな時刻にスケッチですか。寒いでしょう」
歳をとると朝が早いのよと肩をすくめると、大叔母は厚手のショールを掛けなおした。
昼間はずいぶん暖かくなったが朝夕はまだ寒く、外にいると手先が冷えてくる。
「クロッカスを描いていたの。このお花は、春をいち早く知らせてくれるのよ」
ときどき手を握りしめて、指先を温めながら描いているそうだ。
こんなところにいたら風邪をひきますよといえば、大叔母は私の言葉に素直にしたがって家に入るだろうが、ずっと思い続けてきた憧れを口にして、念願かなって絵を習いはじめたばかり。
冷気がただよう庭で熱心にスケッチブックに向かう姿に、余計なことは言わずおこう。
「昔もね、朝早く起きて、こっそりスケッチしたのよ」
「若い画家たちに、絵を描くのを見られたくなくて?」
「そう。つたない絵ですから、恥ずかしいでしょう」
この屋敷に若い芸術家が出入りしていた、30年以上前のことである。
大叔母の道具は当時の物か、スケッチブックの表紙や鉛筆ケースは時代を経た色を帯びている。
お気に入りの道具を手に、誰もいない朝の庭で好きな絵を楽しむ。
なんと豊かな時間だろう。
それに引きかえこちらは、付き合いゴルフのために休日出かけなくてはいけない。
そのうえ天気は崩れる予報、ため息のひとつも出る。
私を見送ろうと腰を上げかけた大叔母へ、そのまま続けてくださいと言い残して迎えに来た車に乗り込んだ。
運転手の佐倉達哉に急な休日出勤になったことを詫びると、明日は休みをいただきますといい、
「予報では、強い雨になりそうです。お気を付けください」
雨の情報を添えた。
「社長の代わりでなければ休みたいよ。仕事よりゴルフが好きな人ばかりだ、ちょっとやそっとの雨ではやめないだろう。
雷でも鳴れば、そうもいかないだろうが」
佐倉とふたりだけの車内で、思わず本音がこぼれた。
腰を痛めた社長の代理で出るゴルフは気の張る相手ばかり、それも気の重い理由である。
社長のいとこで私も親しい付き合いのある、『近衛商事』 社長の吾郎さんもゴルフメンバーのひとりであるのが、せめてもの救いだ。
ほどなくフロントガラスに雨が落ちてきた。
信号で止まった車の前を、手をつなぎながら駆け足で横断歩道を渡る男女が見えた。
私と佐倉が 「あっ」 と同時に声をあげたのは、女が転びかけたためである。
男がベーカリーショップの袋を持った手で、とっさに女の体を支え、態勢を持ち直した女の左手に結婚結輪が見えた。
日曜の朝、夫婦でパンを買いに行った帰りに雨にあったというところか。
「佐倉のところは、夫婦喧嘩なんてないだろう」
「そうですね。いまのところ、まだ」
新婚の佐倉の返事にうなずいていると、思いがけないことを言いだした。
「このふたり、今後、ケンカにならなければいいのですが」
「うん?」
「昨日、ほかの場所で彼を見かけました。手をつなぐ相手は別の女性でしたが」
男の顔をよく覚えているなというと、昨日も男と一緒にいた女性がつまずいて派手に転び、近くにいた佐倉が駆け寄って手を貸したそうだ。
「転んだ拍子に女性がバッグの中をぶちまけたので、それを拾って渡したら、彼から丁寧に礼を伝えられました。
女性にも怪我はなかったかと優しく声を掛けながら、抱きかけるように立たせて、女性の方は甘えるように彼の腕につかまって。
親密な関係のふたりに見えました」
ところが今日は、男は違う相手と一緒で驚いたといいながら、佐倉はミラー越しに苦笑した。
そんな話をするうちに、横断歩道を渡り切ったふたりは、そのまま走って近くのマンションに吸い込まれていった。
「日曜の朝、早起きして妻とパン屋に行く男は、恋人にも優しいのか。
俺にはそんな器用な真似はできないね。遠縁の娘に思わせぶりな態度をされて、妻に誤解されたのではないかと、ビクビクしているよ」
話のついでというわけではないが、昨日の出来事を佐倉に語った。
いつも私のそばにいる秘書の堂本里久は、堅物ではないが気軽に冗談が言える相手ではない。
一方佐倉は、見るからに穏やかで人に警戒心を抱かせない。
今日はゴルフ場までの送迎で、秘書は同行せず車内は運転手の佐倉だけ、私の口も軽やかになる。
「それは災難でしたね」
私の話をうなずきながら聞いた佐倉は、もっともな感想を口にした。
「これから向かうゴルフ場の売店に、限定スイーツがあります。遠くから買いに来る人がいるほど有名です」
奥様の土産にいかがですかと、佐倉が有力な情報をくれた。
佐倉はスイーツにも通じているのかと感心すると、妻に買ってきて欲しいと頼まれましたと照れた顔になった。
甘味が苦手な佐倉と違って、彼の妻は甘いものに目がないらしい。
「妊娠すると味覚が変わるそうですね。あれほど好きだったチョコレートは見向きもしなくなって、最近はバームクーヘンに凝ってます」
妻の妊娠をさらっと告げた。
「おめでとう。そうか、佐倉も父親になるのか」
それから、妻の体調の変化やおなかの子の成長など、先輩気取りで佐倉に語ってきかせるうちに、さきほどまでの気の重さはいつの間にか消えていた。
ゴルフ場に着いた私と佐倉は、ふたたび 「あっ」 と同時に声をあげた。
私を見つけて手をあげた吾郎さんの隣に、ゴルフウエアを着た七海が立っていた。
「彼女が、例の又従姉妹だ」
「そうですか……商事の社長と親しいようですね」
「佐倉も七海を知っているのか」
佐倉もさっき、七海を見て驚きの声をあげた。
「知っているほどではありませんが……さきほど話した女性です」
「さきほどって、転んでバッグをぶちまけた、あの?」
佐倉が無言でうなずいた。
吾郎さんがこちらに走ってきたため、佐倉との話はそこまで。
かろうじて 「あとで詳しく聞かせてくれ」 と伝えた私にうなずき、車に乗り込み戻っていった。
「親父さんの代理、ご苦労さま。やっぱり降ってきたね、まいったな」
まいったというほど困った顔ではなく、趣味の演劇ほどではないがゴルフ好きの吾郎さんには、これくらいの雨はなんでもない。
「どうして七海がいるんですか」
「あっ、彼女ね。僕が誘ったの。女性メンバーが欲しくてさ。彼女、上手いからね。
鷹彦さんにも伝えたけど、宗一郎君は聞いてない?」
そういわれて頭を横に振った。
鷹彦は私の父の名だ。
「言い忘れたのかな。まあ、そういうことだから。じゃあ、あとで」
吾郎さんは人の輪に戻っていった。
七海が今日のコンペに参加することは、あらかじめ決まっていたということである。
では、どうして昨日それを私に言わなかったのか。
思わせぶりな目と絡めた腕は、明日はよろしくという意味だったのか。
私に気がついた七海が、満面の笑みを浮かべながら手を振ってきた。
無視するわけにもいかず軽く手をあげて応じたが、正直、関わりたくない気分だ。
ほかの男と会ったあと、千寿マリオを追いかけて我が家を尋ね、帰り際に私へ意味ありげな視線を送ってきた。
いままた、吾郎さんの腕にしがみつきながら周りの男性に愛想を振りまいている。
又従姉妹の節操のない振る舞いに顔をしかめた。
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